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「まだ名をきいていなかったな」
「マ、マーシャといいます……」
王都の役人ホルンはうなづいた。
「帳面を管理するのはマーシャとなる。責任持って記入していくように。受けた者にはその帳面を参考にして後から銀貨が渡されることになるからね」
「その場ではいただけないのですか?」
「帳面をつけなくては何度も受け取ろうとする者が出る可能性が高い。受けてほしいからお金を出すのだ。必要のない者に渡すほど無駄なことはないだろう」
わたしが役人と広場に戻るとすでに大半の村人は家に戻ったようで、人影はまばらだった。
「終わりましたか」
駆け寄ってきたのは村長だった。
まだ子供とはいえ事情の分からないわたしではいつ役人の機嫌を損ねてしまうかと心配だったのだろう。
あからさまにほっとした様子で
「この子にお役目が務まりますかどうか」と言う。
「しっかりした良い子だ。すべきことは伝えたゆえ全うすることができるだろう。そんなに心配しなくともよい」
「ですが、大事なお役目ではありませんか。村長である我が家で取り仕切ったほうがいいのではないでしょうか」
「しかし祠の管理はすぐに変更できるものではない」
「ですがこの子も代理ではないですか」
「血縁であるならともかく、正式な変更には必要な書類と儀式がある。私も子供であることを心配したが、話してみてこの子ならできると判断した」
「ですが」
「それとも担当するのが私では村長は不満ということなのだろうか。ならば直接中央神殿に行ってもらう必要がある。本来ならばそうしてもらおうという話になっていたのが、民にも生活があるからと近場の祠で済ませるようにと取り計らわれたのだよ。納得できないのならすぐに私が戻り伝えるとしよう」
「え、いや。それは」
「往復の旅費はきっと銀貨の一枚では足りないだろう。だが村長の決定であるならば仕方あるまいな」
村長は納得はしていないようだったが、それ以上反論することはなかった。
話が終わったため家に戻る。
先に帰っていた弟が家にある野菜を焼いて待っていた。しなびて小さくなっていたがまだ十分食べられるのでとっておいたものだ。
「ただいま。お母さんは?」
「まだ寝てる。ご飯できたけどお姉ちゃんは食べる?」
「食べる食べる」
わたしの返事に弟は不満げな顔を見せた。自分の取り分が減るのが嫌なのかもしれない。帰りがけに食べられそうな野草も摘んでくればよかったと後悔する。
「遅いからてっきり村長のとこで食べてくるのかと思ったのになあ」
「お役人様はそうかもしれないけど、わたしが誘われるはずないでしょ?管理に必要なことを教わってただけだからさ」
「お姉ちゃんが管理するってことになったんだね。僕は呼ばれなかったし」
「そういえば。サウルもって言えばよかったかも」
「いいよ、僕が先に帰らなかったらご飯はどうしたの。作れる人間は僕かお姉ちゃんしかいないでしょ?二人とも捕まってたら仕事が進まないよ」
サウルの言う通りだと思った。二人でやることに意味がないなら一人ずつ別のことをやったほうが早い時間に全部終わるだろう。
「そうだお役人様からこっそりもらったんだよ」
胸元から銀貨を取り出すとサウルに渡す。
こっそり何かの時に使うだろうからと懐に一枚だけ残した。
「は?何。もう報酬をもらってきたの?」
「報酬じゃないよ、もらったの。これで家族においしいものを食べさせなさいって。親切な人もいるんだね。お役人ってもっと怖いものだと思ってた」
急にサウルが黙る。それかあらため息をつくと真面目な顔で言った。
「こんなお金、早く返してきなよ」
「何言ってるのよ。せっかくホルン様がわたし達のためにこっそり渡してくれたのに」
「ホルン様、ねえ。見返りもなしにお金をくれる人なんているはずないだろ。お姉ちゃんはもう村の人間に何をされたのか忘れたっていうの?」
「みんなだって新しい村に移ってきて必死だったんだと思うし、仕方ないんじゃないかな」
「甘い。甘いよ。そんなこと言ってるから満足に耕すこともできない土地を回されるんじゃないか。もっとよく考えないと」
サウルはそう言うけれど、少し土が硬いだけで耕せないほどではないし、実りが少ない分だけ他の人よりも広い土地を使っているから、収穫量自体は他の村人とあまり変わらない。
「考えているわよ。だから役目だって引き受けるし、お金だってもらったのを見せたじゃない」
「だーかーらー、単に祠の管理するだけにしては多いじゃないか。あの役人は中央から来たんだろ。あっちじゃ汚職が進んでるっていうし。そんなにたくさんお金を渡してくるってことはさ、お姉ちゃんのこと買って帰るつもりなんだよ」
「あんなに綺麗な人がわたしなんか相手にするはずないじゃないの」
「お姉ちゃんが嫌じゃないんだったら別に僕が口を挟むことでもないか。ならお金も入るし、いいんじゃないの」
「だから違うって言ってるでしょ?もう。いらないんだったらわたしが管理しとくからね?」
「どっちでもいいけど……他の村の人にはこのお金、見られてないんだろうね?」
「見られてないから大丈夫。馬車の中でこっそり渡されたの。他には誰もいなかったから」
「ならよかった。下手に持ち歩かないほうがいいだろうから使うまでは隠しておくよ」
「そう?じゃあお願いするね」
わたしよりもずっとしっかりしているサウルに任せておけば間違いはないだろう。
「村の人間全部集めるから何かと思ったけど、悪い話じゃなくて本当によかったよ」
「これからしっかりやればいいってことだものね。がんばらなきゃ」
次の日から村人達が祠を訪れるようになった。今まではあることすら知らなかったという移住してきた村人の一人に笑いかけられ、愛想笑いを返すのが精一杯だった。
村に住む人間の数ではすぐに終わると思ったが、村長が日に参る人数を決めたらしく、手が間に合わないということはなかった。
石像に手を合わせた村人の名を帳面に記していく。
初日はその場で銀貨がもらえるものだと思った村人が無言で手を差し出してきたが、二日目からは村の全員が終わってから渡されるのだと知れ渡ったようで、帳面に書き込む名前が間違っていないか確かめようとわたしの手元をじっと見る者が多くなった。
字を書けない者も多いが、村での取り決めをするために自分の名前だけは書けるようになっていることもある。わたしが書き間違ってしまうのではないかと不安になるのも仕方ないだろう。
顔を覚えていても名前までは覚えていない相手も多いため、帰る前に必ず名乗ってもらうようにした。
様子を見に来たホルンに後にしたほうが祈り忘れがないだろうと指摘されたのだった。
「祈りを捧げてもらうことに意味がある。銀貨に気をとられて忘れられて困るのだよ」
「確かにそうですね。名乗って安心してしまったら忘れて帰ってしまう人もいるかもしれません。慣れない道を歩いてきて疲れているでしょうから」
「おや、まるで君は慣れているかのように聞こえるな」
「他の村の人と比べたらそうかもしれません。小さい頃は父親に連れられてよく来ていましたから。最近はほとんど来れていませんでしたけれど」
「ではもしやお役目は父君が?」
「はい。父が亡くなってからは母になりました」
そこまで言ってわたしはふと気にかかっていたことをきいてみたいと思った。些細なことでもきける相手もいないため、心に仕舞い込んでそのまま忘れてしまっていたのだ。
役人はなんでも疑問に思ったことは話すようにと言ってくれていた。この人になら、話してもいいような気がした。
わたしより先にホルンが話し始めた。
「村人が入れ替わっていることも来るまで知らなかったし、由緒正しき場所であるにも関わらず杜撰な管理しかされていなかったことにも正直驚いている」
「すみません。わたしのせいですよね」
「いや。確かになるべく通ったほうがいいが……、根本的な問題はまた別の場所にあるのだろう。本来であれば村長である人間がとるべき対処を放棄しているように思える」
「村長さんがですか?」
「そうだ。名前まではともかくどのくらいの人の数が住んでいるのか、届け出ているはず。理由は分からないが……多くの死者が出たならばその時点で領主に報告を上げなくてはならない。そうしなければ税は村全体にかかっているから、一人あたりの負担が多くなってしまう。だから自分達のためにも報告するはずなのだ」
「それは隣村から移り住む人が同じくらいの数だったから言わなくてもいいっと思ったのかもしれません。村長さんは確かにどうしようと言っていた気もしますし。わたしは父が亡くなったばかりで自分のことに精一杯だったので詳しくはわかりませんけれど」
「今より小さかった頃のことだろう?覚えていないのは当たり前だ」
「どんな顔をしていますか?自分では分からなくって」
「申し訳なさそうな顔をしていた」
言われて素直に驚く。申し訳ないと思っているとしたらきっと父を早くに逝かせてしまったことに負い目を持っているのかもしれない。
「……父が亡くなったのは祠に来る途中の小川のあたりでした。普段なら暗くなってもすぐに帰ってくるはずの父がなかなか帰ってこなかったので、母を振り切ってわたしは探しに出ました」
「心配なのは分かるよ。小さな子にはきつい道のりではないか。しかも一人でなどなんと無謀なことを。もしその場にわたしがいたなら止めただろうな」
「そんな風に言われたのは初めてです。ホルン様はお優しいのですね。わたしが急にどこかに出ることはよくあることだったので、誰も気にしませんでした。弟は母が必死に守っていたのに。魔物がたくさん現れたのにわたしは心配されることはなかったんです。多分父と一緒だろうと思われたのだと思います」
「では父君は魔物にやられたのか。腹が立つかもしれないが、ならお亡くなりになったのは残念なことだが、そうならずに済むことの方が少ない。一体倒すだけでも騎士が何人も必要なのだ。一人で村を守り切ったならよくやったと言えるのではないか?」
「わたしが父を見つけた時にはまだ息はあったんです。もしもわたしが適切な動きをできたら結果は違っていたかもと思うと」
「マーシャが通いたくない気持ちも分かるが。人の気持ちは他人にとやかく言えるものではない」
「ふふ、今はもう大分落ち着いていますから。今まで来れなかったのはやるべきことが違う違和感に耐えられなかったからなのです」
ホルンの綺麗な瞳がわたしをいぶかしげに見た。
「やるべきことが違う?」
「そうなのです。父が亡くなった後、ほとんど祠に来たことのなかった母が父の後を継いで管理をすることになりました。わたしは何をどうするのか見てきたつもりです。母がするやり方は父の手順とほぼ逆で。ただ申し訳ないのですが、管理を任されている家の者しか教えてはいけないことになっているので、全てをお話するわけにはいきません」
「なら詳しく話さなくとも構わない。父君と母君の間で作法が違った、ということなのだな?」
「はい。父はわたしに言ったことがあります。『祈るのと願うのは違う』と。わたしの目からはまったく違うように見えました。もしかしたらそう思えただけで同じだったのかも」
「祠の様子は数日前とはまるで別の場所のようだ。マリンの世話が合っているのだろう」
「わかるのですか?」
「ああ。必要なことくらいは自分で調べられるようにしているのでな。何が必要なのかが分からなければ、足りないものが何かは導き出せない。数字が正確であれば机上で動かすことのできる事柄もその数字自体が間違っていたらかける労力が無駄になる。とはいえ一介の役人にできることは限られている。すまないな、本当はもっと手伝うことができたらいいのだが」
「そんなことありません。今まで誰にも話すことのできなかったこと、話せてうれしいので」
ホルンが柔らかく笑った。
「ならば私もこの村に来た甲斐があるというもの。私でなくともよい仕事に私である理由をくれたのだから。礼を言う」
綺麗な人は姿ばかりではなく心までも綺麗なのかもしれない。
ホルンの姿を思い出すとなんだか体が芯からぽかぽかと温かくなる気がする。毎夜寒さに震えていたのが嘘のようだった。
顔に当たる朝日の眩しさでわたしは目を覚ました。
普段と違うことをしているからか、夜は横になるとすぐに寝つけたようだった。
すでに働き始めていたサウルと目が合った。いつもなら母のところにいるはずの弟にふと疑問が浮かぶ。
「お母さんはどうしているの」
「まだ寝ているから起こさないようにしてあげて」
「でもわたし何日も会ってないし」
「お姉ちゃんと話すとお母さんがまた沈んじゃうから。できれば放っておいてあげてほしいんだ。お母さんからお姉ちゃんに話したくなるまでは話すのを我慢してくれないかな。お姉ちゃんが寂しいのは分かるけど……」
もう何年も会っていない母の顔を思い出す自信がない。
わたしに会うと父のことを思い出してしまうからと母と会えなくなった。サウルだけが部屋に入るようになってもう長い。
「お母さんのことは頼んだわよ。わたしじゃお母さんの力になってあげることはできないんだから……」
「人には向き不向きがあるって言うから向いていることをすれば?」
「どうかな、がんばってみるよ」
わたしは意気込む。
「そういえば鑑定はお姉ちゃんどうするの」
「もうサウルったら。ちゃんと聞いてたの?健康な男子って言ってたじゃない。わたしは対象じゃないわよ」
「そんなの分からないよ。祠にお参りするだけでいいって話だしさ。管理はどうせこっちでやってるんだもの。夜中にこっそり参れば姉ちゃんだってできるよ」
「夜中だろうといつだろうと駄目だと思うわ」
「駄目かどうかはやってみなくちゃわかんないって」
「無理よ」
「お参りするだけで銀貨一枚もらえるんだよ?お姉ちゃんはもっと美味しいご飯を食べる日が増えたらいいと思うのがおかしいっていうの?」
弟の言うことにも一理ある。
そう思ってしまったわたしは連日受付をしながら清めていた祠に夜中一人で向かった。
小さな我が家から歩いて半時ほどで着くが道のりは険しい。夜に通るような道ではない。ゆるやかな傾斜を登っていくと小さな川を渡らねばならず、月明かりのない夜には気づかず落ちてしまうだろう。
傷つき倒れた父が見つかったのは川のすぐ近くだった。いつまで待っても帰ってこない父を心配した私が見つけたのだ。家で待っていたならきっと父は朝冷たくなって見つかったのだろう。
暗闇で黒く濡れているように見えた父を起こそうとわたしは何度も揺り動かした。浅く息をしているのに一向に目が覚めない父に何度も何度も呼びかけた。
「お父さん、こんなとこで寝ちゃだめだよ。ねえ!」
父が寝ているのではないと幼いわたしも薄々気づいていた。しかし、人は気づきたくないものは無視してしまうのか、気づけないのか。
わたしは必死だった。
このまま父が起きなかったらどうしようと思ったのだ。父は薄らと目を開けて、ぼんやりと定まっていない目線を向けてきた。
目の前にいるのが娘と分かったのだろうか。わたしと目が合うと言ったのだ。
「逃げろ、早く」と。
何から逃げればいいのか、わたしにはわからなかった。
目の前にいたのは、倒れたままの父だけだった。
父が魔物達を追い払ったのだと知ったのは後になってのことだった。
思い出した光景を振り払うようにわたしは頭を横に振った。いつの間にか目的地に辿りついていた。祠はもう目の前だ。
「やっぱり昼間と違って薄気味悪いわね。早いとこ終わらして帰ろう」
草も木も日の光を浴びている時と違う。祠の周りを整備しきれていないせいで伸び放題になってしまっているのもあるが。
星々の瞬きとと細くなった月の光に照らされて、石柱はその白さをわずかに晒す。
どこから運び込んだのかも分からない大きな石柱が同じく石でできた天井を支えている。
もしも今大地が動いたらきっとわたしは生き埋めになるのだろう。
長い間起こらなかったからこそ祠はあるままで、所々が苔むしている。
中は明かり取りの仕掛けでもあるのだろうか。中央に安置された石像を中心に淡くほのかな明かりがあった。
暗闇の中で祈るだろうと蝋燭を持ってきたが使わずにすみそうだった。わたしはほっと息を吐いた。石でできているとはいえ、でこぼこした床の場所で長く火を扱う気になれなかったのだ。
そもそも夜に誰かが訪れることなど昔の人は考えていなかったのだろう。柱や天井と同じ石でできた床は立っていて分かるくらいに傾いていた。
手を合わせお祈りを捧げつつ呟いた。
「鑑定お願いします」
すると昼間何人もの男達が祈っても変わることのなかった石像が明るく輝いた。
「え、うそ……」
【勇者を見つけました】
頭に響く妙な声に驚いて、わたしは飛んで帰った。名前をどう記入するか考えていなかった。わたしの名を書くわけにもいかないので結局銀貨をもらえないことに気づいたがもうどうでもよかった。
家に着いた途端に慌てて部屋から飛び出してきたのはサウルだった。
「ねえさっきの声って何?」
「まさか聞こえたの?」
「寝てたら頭の中に響いたんだよ。勇者をみつけましたって。お姉ちゃん、今夜祠に行ってみるって言ってなかった?」
「うそでしょ。サウル、あんたにも聞こえていたっていうの?」
「姉ちゃん?まさか」
「行ったわよ。それで祠でお祈りしたら石像が光ったの。声がしたわ。勇者をみつけましたって」
「え、でも男子って決まってるんだよね?実は勇者を探していたとか?……まずいんじゃない?お姉ちゃんが勇者だなんて、そんな冗談みたいなことあるわけないじゃないか」
「でも本当なんだからしょうがないじゃない。鑑定なんて嘘だったのよ。勇者を探すために祈らせたかったんだわ」
「それにしたって女のお姉ちゃんが勇者だって分かったら……」
王家に黒い噂が絶えないことを王都から遠く離れた村人すら知っていた。
想定していない者が勇者であった時には必ず排除に回るだろうことは想像がつく。
「名乗り出たら生きては帰れないかもしれないわね」
「え、やだよ。僕のせいでお姉ちゃんが死んじゃうなんて!」
「わたしだって死ぬ気はないわ。……サウル、お願いがあるの」
「僕に代わりに行けって?嫌だ無理だよ。本当は一緒に行ってあげたいよ。だけど、母さんを残して行くわけにはいかないし。お金がもらえるにしてもやらないほうがいいのかもって思ってたから」
「違うの。わたしの振りをして村にいてほしいの。わたしがあんたになる。男だってっことにして勇者だと名乗り出ればすぐに王家に殺されることはないわ」
考え込むサウル。
ダメならわたしはどこかに隠れようかと思った。勇者がみつかったという声がどこまで届いているかは知らないけれど、国中に出たおふれなのだ。隣の国に移り住めば、気づかれないのではないだろうか。
「わかった。僕達ちょうど同じくらいの背丈だもの。お姉ちゃんの服を着ることくらい簡単だよ。それに帳面は僕らが管理しているんだし、見れば僕の名前がないことも分かる。祠に忘れ物をしたことに気づいて行ったらうっかり鑑定されちゃったことにすればいいよ」
「ごめんね、サウル……」
「違うよ。これからサウルは姉ちゃんがなるんだ」
幸いホルンからもらった銀貨とサウルが鑑定を受けた報酬とでしばらく暮らしていくことが可能だ。顔立ちもよく似た弟だけど、髪の長さは誤魔化せない。わたしはサウルと同じ肩ほどで髪を切った。サウルの方はしばらく伸びるまで外を出歩く時はフードをして、なるべく引き籠もることにした。
「気をつけてね、お姉ちゃん」
「うん、お母さんをよろしくね」
母の顔を見てから出て行きたかったが、サウルが会ってもいいかまず確かめに行くと断られてしまった。
そっとしておいたほうがいいだろう。それにわたしも覚えている母の顔は幼い頃見ていた笑顔のままにしておきたかった。
「無茶しないで駄目そうなら引き留められても帰ってきなよ。なんとかするから」
「逃げたらきっと後が大変になるだけよ。心配しなくてもきっと何かの間違いだろうし、お話するだけしてさっさと帰れるようにするから」
「ならいいけど。あの役人も得体が知れないし。できないと思ったことはちゃんと断るんだからね?」
「わかってるわかってる」
これが最後になるかもしれない。今まで当たり前だと思ってきた部屋をぐるりと見回して記憶に留めた。
村の広場に出ると村長とホルンが待っていた。その後ろに大きな馬と他に初日に乗った馬車があった。
繊細な細工が所々に施されている馬車は庶民には手の届くものではない。改めて見るとただの役人だと言うがホルンはそれなりの地位についているのだろう。
「よろしくお願いします」
「そんなに固くなることはありませんよ。見つかった勇者と戻るのはむしろ光栄なことなのですから」
祠で話した時と言葉遣いががらりと変わっている。丁寧に話されることで余計に距離を感じて、近くに立っているのにさみしくなってしまう。
わたしは彼の名を教えてもらったが、村のみんなは聞いていない。今はサウルなのだと思い出し、頭を下げた。
「あのサウルって言います。よろしくお願いします。お役人様のお名前を教えてはいただけないですか?」
「私はホルン。ただのしがない文官の一人です。勇者様に様をつけてもらえるような立場ではありません」
「やめてください。僕が本当に勇者なのかすら分からないのに」
「あの時間帯、祠にいたのはあなただけでしょう?残念ながら間違いはないかと」
「祠にいたのは僕ですけど……はあ、行くんじゃなかったかも……」
「そう思ってしまうのも無理はないですが。家族が心配なのでしょう?お姉さんはとても働き者ですからきっと二人で帰りを待ってくれるでしょうね」
どきっとした。見透かされているような気がしてしまったのだ。
「ぼ、僕はサウルです」
「そうそう、サウルでしたね。よく覚えておきますよ。私は覚えていることを忘れないでくださいね。たくさんの苦難がこの先あなた様を待っているでしょう。何者であったかを忘れてしまいそうな時は家族のことを思い出すように。そうすれば必ず帰ってこれますよ」
サウルはわたしの手を包みこむように両手で握り励ましてくれる。二人分の手は飛び跳ねていた。
それは馬車の揺れだけではない。ホルンでもなかった。震えているのは自分だ。
「どうしよう、勇者を探してるなんて知らなかったんです……」
「……こんなに小さな肩に命運がかかっているなんて」
ホルンはわたしを心配そうにのぞきこんだ。




