樋口の日常
あの後少々迷いはしたが、慎は結局いつも通りに登校した。
高校一年生である彼にとって、皆勤賞が消えるのは後味が悪い。些細な点数でも、その少しが明暗を分けることがある。それは彼がプレイしていたゲームで学んだことでもあった。
「やったねNマスター。放送見てたよ」
「お、サンキューな」
昼休み、界隈での名前で慎を呼んだのは、同級生の天野 礼司。彼もまた『オルタナティブ・ラグナロク』のプレイヤーで、慎の放送とあのゲームの最後を見届けた人物だ。
「劇的だったね。なんか最後の攻防は、被ダメも与ダメも理論値近かったっぽいよ」
「マジで? ギリギリだったのか……ん? なんでそれを知ってる?」
「そりゃ計算したからね。放送終わった後でだけど」
「相変わらず好きだなお前……」
礼司は数字に強く、ゲーム内での方程式も、独自の手法で割り出していた。ただ残念なことに、半年持たずに閉鎖されたゲームの式では、もはや使われることはあるまい。ついでに言うなら、この手の式は突き詰めてプレイする人間でなければ、必要でなかったりする。
当然だ。この国のソシャゲーは基本『課金ガチャして高レアリティで殴れ』という方式がほとんどだ。低レアリティキャラに人権はなく、貧乏人は天井知らずの課金勢を眺めながら、手癖で適当に画面をいじくるしかない。計算式を必要とするのは、戦力が足りなくなる場面だが……金を積めば解決できる以上、需要はニッチだろう。
ここにいる二人は例外で、慎は最低レアリティのみでのプレイを、そして礼司は『機械系』のキャラクターのみの縛りプレイをしていたからである。動画の投稿もしていて、彼は『マシンマイスター』と呼ばれるようになっていた。
「サービス停止惜しいよね。縛りプレイが成立する地盤はあった」
縛りプレイとは、プレイヤーの意思で使用キャラクターを制限し、通常のゲームプレイでは使われない手法で障害を突破する、様々なゲームである遊び方の一つだ。慎はレアリティを、礼司は種族で制約を課したが、人によっては見た目や性格、名前などで制限をかけることもある。
「ホントそれ。ま、でも最後に応援してくれたのは、感謝してなくもない」
本来あのゲームは、17時をもってサービス終了が告知されていた。
ところが、実際にサービスが終了したのは17時半だった。
そして……慎が最後の敵を仕留めたのは、17時20分だったのである。もし運営の予定通りならば、慎は今以上に悔いを残る終わりを迎えていただろう。
『魔法をかけた。最後のチャンスだ。頑張れよ』
『Nマスター』として生放送中に送られたこのメッセージは、ゲーム運営の誰かが送ったのではないのだろうか? サーバー周りを管理しているスタッフが、慎のことを見つけて30分だけの猶予を……彼らだけが使える魔法を、行使してくれたのではないのだろうか? 慎はそう思っている。彼の主張を聞いた礼司も頷いていた。
「どう考えても、運営見てたよね。ただ、そのことでSNSが炎上してるみたいだよ」
「は? なんで?」
「一人だけ、しかもロクにお金を落とさなかった人間を特別扱いだとか……こういう遊び心をどうして早く出せなかったんだ? みたいな感じ」
「言いたいこと、わからなかねぇけどさ……」
様々な人間がつながるインターネットは、仕様上無数の人の目につく。
そして、多数の人間が集まって批判する現象が『炎上』だ。スマホやSNSの普及によって、ここ最近目につく現象で、対策も考えられてはいるようだが……匿名性の高いインターネットでは、根本的な解決は難しい。
「んな風に何もかも叩いてたら、誰も何も出来ねぇじゃんか。最後ぐらい大目に見れねぇのか?」
「そこまで深く考えてないんだよ。安全圏からできるストレス解消だろうね。中には便乗もいるだろうし」
「当事者のことなんざ、まるで考えてねぇ」
「その発言は、ゲームバランス崩壊させた運営にも刺さるよ」
「あー……確かに」
不格好に、慎が顔を歪めて笑う。つられて礼司も苦く笑った。
二人ともゲーム運営について、言いたいことはたくさんある。それでも、二人はあのゲームを……『オルタナティブ・ラグナロク』のことは好きだった。彼らは近い価値観を持っている友人がいるおかげで、深く気に病まずに済んでいるのかもしれない。
と、ちらりと礼司の後ろの方から、ぼんやりと視線を感じだ。焦点を奥にすると、礼司の後ろにいた人物と目が合う。どこか疲れている様子のクラスメイトは、慌てて目線を逸らした。
目の合った彼は確か、遠藤……という苗字までは覚えている。親しくなかったから下の名前までは記憶していないが、今日このクラスではある意味目立っていた。
彼は、夏休み明けから登校していなかった。その原因はクラスになじめなかったからと、表向きはなっている。慎の記憶では、一学期の最中にちょくちょくいじられていたと思う。
視点を変えれば、あれはいわゆるイジメ行為であったかもしれない。しかし遠目から見ている慎としては、軽くからかうだけのイジリと判別のしようがなかった。突っかかる方と突っかかられる方とも関係が薄かった彼には、わざわざ自分から面倒ごとに首を突っ込むことはしなかった。
そんな曖昧な対応の結果として、夏休み明けから彼は不登校になった。最初の内はただ休んでいるだけとも言われたし、遠藤に付きまとていた数人も、空いた席を眺めては棘を含んだ小言を口にしていた。
だが、彼はいつまでたっても来なかった。
担任も特に何も言わず、ぽっかりと空いた席がクラスの空気を悪くしたのは覚えている。軽口を叩いていた集団は、いつの間にか他の人間に絡んでいて、彼のことなぞどうでも良くなっていた。そんなものだから、普段空白の席に人がいると逆に視線が向いてしまうのだ。
礼司が「どうかした?」と尋ねてきたが「大したことじゃねーよ」と笑ってごまかす。触らぬ神にたたりなし。面倒事になりそうな相手なら、最初から距離を取って遠ざけてしまえばいい。気にはなっても関係を持ちたくはないし、今時そんなお節介な人間も少数派だろう。
だが、もし。
もし、ゲームのようにやり直せるなら、慎はここからやり直すことを選択するのかもしれない。
たとえ些細な一日でも……後々の出来事を考えれば分岐点にもなり得る。この日この瞬間は、確かに分岐点と呼べる日だった。