大人としては腑に落ちない
「ちょっと待つの! 『ゾンビ』の様子が……」
「!」
井村蔵人とその隣、ふざけた格好の『巫女シスター』の声で男は立ち止まる。今まで虚ろな目つきで彷徨っていた人々が、不意にふらりと倒れたり、呆然と立ち尽くしている。急に正気に戻ったような、あるいは悪夢から覚めたような……そんな気配だ。
「これは……樋口がやったのか?」
「わからないの。でもそんな余裕あるの?」
「聞いてみるか……樋口! オイ樋口!」
ブルートゥースの無線へ、井村は必死に声を吹き込む。状況は読めないままだが、何らかのきっかけや原因があるはずだ。くたびれた大人でも、何度も繰り返していれば慣れてくる。しばらくノイズで繋がらなかったが、ようやく『Nマスター』は返答した。
『オッサン! こっちでも駐車場の『ゾンビ』たちが正気に戻っている! そっちは!?』
「似たような感じだ……お前がやったのか?」
『いや、オレじゃない』
「は? 俺でもないぞ!?」
どういうことだ? この現象は『感染源のゾンビ』を、仕留めたとしか考えられない。しかし奔走していた井村でもなく、駐車場で対応していた樋口でもない。となると、他にあるとすれば――
「まさか……警官がたまたま倒したのか? 流れ弾か何か当たって……」
「私が言うのもなんだけど、そんな偶然あるの? ねぇマスター、何か隠してないの?」
身内だからこそ、何か気が付いたのだろうか? 仲間からの問いかけに、若い彼は言いよどんだ。
『あー……オッサン。怒らないで聞いてくれ』
「なんだ?」
『……怪盗に逃げられた』
「はぁ!? 何やってんだお前!?」
『混乱の中で仕方なかった! あのまま捕まえっぱなしで、ゾンビに感染させるのも忍びねぇし……』
「お前わざと……いや、それで? 関係あるんだろ?」
意図的に逃がした事を仄めかす慎に、舌打ちを漏らしそうになる井村。だが彼は、回りくどいが余計な話はしない。これは必要な前提なのだろう。だから急かさず続きを待つ。程なくして彼は、事態の説明を始めた。
『んで……さっきブルートゥースから、怪盗が『感染源のゾンビ』を撃破したって連絡があった。ゾンビたちが元に戻ったのも……恐らくは』
「怪盗が仕留めたからってか? 動機はなんだよ?」
『冤罪被せられるのを嫌ったらしい。自分の予告を、自分のための舞台を別の奴に……ゾンビ騒動に利用されるのは我慢ならない、って感じかね?』
「……よくわからん」
『美学の強い奴なんだろ。こういうやり口は好みじゃない、って話』
「訳が分からん」
本当に、この怪盗と波長が合わないらしい。アニメや映画じゃあるまいし……と言う反論は引っ込めた。現在起きている現象は、ゲーム世界からキャラクターが現実に飛び出す異常現象。文字通り『映画の世界の怪盗』として当てはめれば、らしい行動と言える。コンビニで細かく金を取らない姿勢とも、合致しているように思えた。
しかし大人としては、やはり腑に落ちない。隣にいる『巫女シスター』も、まだ半信半疑な様に見える。何か言いたげな彼女に目くばせして、井村はこの場を収めることにした。
「訳がわからないが……ともかく、お前の予想通り『感染源を潰せたから、ゾンビどもは全滅した』……そう考えていいんだな?」
『間違いない……と言いたいけど、確信は持てない』
「そうだな。第二波を仕込んでいるかもしれねぇ。しばらく見回った方がいいか」
『あぁ……もしかしたら、黒幕のマスターがいるかもしれないか』
「希望は薄いだろうが、警戒するに越した事はない。時間はあるか?」
『オッサン……こういう時は使ってくれよ! さすがに夜遅くまではダメだけど、九時過ぎぐらいに家に帰れるなら大丈夫だって!』
「…………お前は」
井村蔵人はため息を吐く。樋口慎――こいつもこいつで、井村には理解できない人種だ。仕事の延長を自分から申し出るなど、嫌々働いている井村には考えられない。
けれど、実際は助かる。『プレイヤー』であれば、敵性キャラクターも察知できる。一人一人の能力も低いとはいえ、数を動員できるのも樋口の強みと言えよう。
長考に見せかけた奇妙な葛藤は、若い彼には分かるまい。
ドブのような人生を生きた井村、取り返しのつかない喪失を抱いた井村に、何かへ傾ける情熱はない。生きていても仕方ないのに、積極的に死ぬ勇気もない。だから何もかもにウンザリしながら、必死に生きる誰かを僻んで生きている。
まぶしい生き方をする樋口慎に、井村は疲れた様子で呟いた。
「……バイト代、増やしておく」
「えっ、いいの!?」
「元々最低賃金ギリギリで雇っている。ボーナスだと思って、ありがたく受け取っておけ」
「あざす!」
俗な世界に巻き込まないと、井村は樋口を見てられない。変に反乱を起こされても困るし、金で繋いでおけばこちらも安心できる。最低限の理屈を浮かべるが、苦い感情が胸から湧くのは何なのだ?
この世界で生きる事に、心からの情熱を失っていない奴ら。怪盗であれ樋口であれ、ただの損得勘定だけで動かない人間――
結局のところ、世界を大きく動かしていくのは、そうした人々なのかもしれない。
一つ腹が立つとすれば……その後始末をしなければならない、その一点だった。