【コミックアンソロジー発売】転生した元悪役令嬢、村娘生活を満喫していたはずが白豚王子に嫁ぐことになりました
※ちょっとだけ夜っぽい表現出てきますが全年齢向けです。R15は念のため。
※あとがきの後ろに番外編を追加しました。スクロールがめんどくさい方は1/9の活動報告でも見られます。
心より愛した人がいた。
でもその人には自分ではない、運命の人がいて。
愛も王位も授けられない自分にできるのは、悪役として二人の背中を押して去ることだけ。運悪く事故に巻き込まれそのまま命を絶つことになってしまったけれど、それも心の底で望んでいたことなのかもしれない。
全てが終わるならそれでよかった。この体も記憶も愛も全て、消え去ってしまえば……。
「――って思っていましたのに、わたくし、なぜ前世の記憶を持っているのでしょう」
思えば、二歳にして突然流暢に喋り出した娘を、両親が見捨てずに育ててくれたのは本当に感謝してもしきれない。
さらにそれだけでは飽き足らず、
「魔法、ないんですの!? 全く!? ではどうやって生活していますの!? 料理は!?」
なんて問い詰めてくる二歳児。ものすごく嫌を通り越して、もはや恐怖しか感じない。悪魔憑きと言われた方がまだ納得できるだろう。
けれど、彼女の新しいお父さまとお母さま――と言っても二人ともド平民だが――は、優しく教えてくれた。
「マッチを使って火を起こすのよ。灯りはろうそくに火をつけて。体の回復は、なんと言っても食事と睡眠ね。どうしてもの時にはお薬よ」
「基本的な部分から固めるんですのね、わかりましたわ!」
――そうして彼女の、レイチェルという名の新しい人生が始まった。
のどかな村でおっとりとした両親に囲まれて、ちょっと、いや、だいぶ変わり者のレイチェルだったが、幸い村人たちもみんな心が広かったおかげで、のびのびと育つことができた。時はあっという間に過ぎ、気づけば花もはじらう十八歳。今は村で唯一の飯屋兼酒場で、看板娘として働かせてもらっている。
ちなみに言葉遣いは面白がって誰も注意しなかったので、未だに直っていない。
「レイチェル! 今日薬の入荷があったってよ! おっかさんが必要なんだろう?」
「本当!? 後で買いに行きますわ、ありがとう!」
「ようレイチェル! 今日もべっぴんさんだな! 俺のとこに嫁に来ねえか!?」
「お断りしますわ! わたくし二度と恋はしないって決めていますの!」
「出たよ、それもまた“前世”とやらかぁ!?」
「ええ! その通りでしてよ!」
昼休憩を取りに来た陽気な男達に囲まれながら、レイチェルは負けないよう声を張り上げた。
生まれ変わる前はこれでも公爵令嬢で、国の第一王子と婚約していた時期もあったけれど、前世は前世、今は今。
もう二度と恋なんてしないと決めた以外、レイチェルは非常に楽しく過ごしていた。なんならむしろ、身分とか義務とかから解放された分、今の方が楽しい気さえしている。
家はと言えば、数年前に母が体調を崩して以来ずっと薬が手放せなくなっているが、それでもレイチェルと父の二人で稼げばなんとか生活はできた。公爵令嬢時代のような贅沢はできなくとも、優しい人たちに囲まれて毎日をしっかりと生きている充足感は何物にも代えがたい。何より自分で稼ぎ、自分で作ったご飯を食べるのはとても楽しかった。
だからこの生活がずっと続くと思っていた。あの蛇のような男が来るまでは。
「お前だな。この村にいる、平民らしからぬ娘というのは」
うららかな陽が昇る、よく晴れた日の昼。レイチェルの働く飯屋に、一目で貴族とわかる豪奢な服を着た男がやってきた。
蛇のように鋭く冷たい眼をした壮年の男は、入るなりレイチェルに詰め寄り、上から下までじっとりとした視線で舐めまわす。
(何ですのこの方。貴族なら女性を不躾に見ることがどれほど失礼なのか、当然知っているでしょうに)
後から知ったことだが、貴族男性の中には平民女性を人間だと思っていない人も多いらしい。この男がそうだった。
「――確かに瓜二つだな。それに、身のこなしには淑女のような気品もある。よかろう、ついてこい。今日からお前は私の娘“クリスティーナ”だ。いいな?」
「いえ、全然良くありませんわ。わたくしはレイチェルよ。あなたの娘では――」
反論しかけたところで、男の大きな手にガッと顔を掴まれる。すぐさま村の男たちが立ち上がったが、連れの護衛達が素早く剣を抜いて牽制した。
「いいか、お前は今日からクリスティーナだ。拒否は許さん」
「な、ん……!」
両頬に食い込む指が痛い。レイチェルが男の腕を叩くとようやく離してくれたが、その瞳は冷たく、一言も彼女の反論を許していないのがわかる。
「いいかクリスティーナ。私には、お前やお前の両親を潰すことぐらい、簡単にできるんだ。――だが大人しくついてくれば、両親の面倒は見てやろう。聞くところによると、定期的に薬が必要なんだろう?」
母のことを出されて、レイチェルは黙るしかなかった。この男、腹立たしいことにちゃんと弱点を調べ上げていたらしい。
「今日の夜に迎えをよこす。いいか、決して逃げるでないぞ。もし逃げたら必ず探し出して、死んだ方がマシだと思う目に遭わせるからな」
ギラギラと底光りする瞳を見ながらレイチェルはコクコクと頷いた。この男は本気だ。なら、今は決して逆らってはいけない。いつか必ず逃げ出すチャンスはあるのだから、と自分に言い聞かせながら。
それからレイチェルは慌てて自宅に帰り、父と母に事情を説明した。二人ともひどく怒って一緒に逃げようと言ってくれたが、それはできない。あの男はきっと言葉通り、地の果てまで追いかけてくるだろう。悔しくとも素直に従った方が、少なくとも両親は守れるはずだ。
「いつか必ず帰るから、待っていて……」
レイチェルには、そう言うのがやっとだった。
◆
その晩、言葉通り迎えをよこした男の屋敷にレイチェルはいた。
彼女の部屋だと言って与えられた部屋はどう見てもメイド用の狭さで、ベッドの他にあるのは文机と椅子、それから小さなクローゼットだけ。身だしなみを整えるための鏡すらない。
(娘って言うなら、せめてもう少しまともな扱いをしたらどうなの!?)
心の中で思い切り罵りながら男を睨む。そんなレイチェルに構うことなく、男は尊大に言った。
「改めて覚えろ。私はエマニエル・マルセル伯爵。そしてお前はクリスティーナ・マルセル伯爵令嬢だ。いいな?」
「……はい」
(伯爵と言うことは、前世のわたくしより格下ね)
なんて心の中で見下してみても、残念ながらスッキリはしない。この場では従順に振る舞うしかないのだ。
「それから、こっちが本物のクリスティーナだ」
マルセル伯爵がそう言うと、一人の少女が部屋に入ってきた。
その姿を見て、レイチェルが目を丸くする。
長い亜麻色の髪に、切れ長の瞳。つんと尖った鼻に薄めの唇まで、クリスティーナはレイチェルと何から何まで似ていた。マルセル伯爵が「瓜二つ」と言っていたのも納得いくほどに。
驚いたのは向こうも同じだったようで、クリスティーナはしげしげとレイチェルを見つめた。そんな二人を急かすように、マルセル伯爵が冷たく言い放つ。
「お前は本物のクリスティーナの仕草や言葉遣いを一通り覚えるように。それが済んだら、すぐに結婚式だ」
「結婚式!?」
思わず声が出た。何をやらされるのかずっと疑問だったが、よりにもよって結婚式だなんて。
(恋とか結婚とか、そう言うのはもうコリゴリ……! あ、いえ、前世では婚約までだったから初めてではあるけれど、それでも嫌!)
そんなレイチェルの気持ちを代弁するように、本物のクリスティーナが声を上げる。どうやら、父親と違って彼女はいい人らしい。
「お父さま、どうか考え直してください。見ず知らずの方にそんなことを……!」
「黙れ! もとはと言えばお前がいけないのだぞ!? せっかく第二王子との結婚が決まったと言うのに、騎士なんぞと駆け落ちを企みおって……! おまけに純潔まで失ったときた。これが露呈すれば、我が家の恥どころではすまないとわかっているのか!?」
カッ! と、雷を落とすようにマルセル伯爵が怒鳴った。「純潔まで失った」という言葉に、クリスティーナの顔にさっと朱が走る。それきり、彼女は何も言えなくなってしまった。
まだ興奮が収まらないらしいマルセル伯爵は肩で荒く息をしながら、イライラしたようにレイチェルに向かって言った。
「いいか、明日からすぐに身代わりの準備を始めろ。そして何としてでもあの白痴の“白豚王子”にお前の純潔を捧げてこい。それが済めば、お前を解放してやる。――念のため聞くが、お前まで純潔を失ってはいないだろうな?」
「生粋の乙女ですわ」
レイチェルが答えると、マルセル伯爵はふんと鼻を鳴らして部屋から出て行った。
(どうせ調べ上げているくせに、わざわざ言わせるなんていやらしい人!)
埃くさい部屋に残されたのはレイチェルとクリスティーナの二人だけ。クリスティーナは父親が出て行ったのを見ると、すぐにレイチェルの足元に駆け寄ってよよよと涙をこぼした。
「ごめんなさい、本当にごめんなさい……! 謝っても謝りきれないわ。あなたまで巻き込んでしまうなんて……」
「いいのよ、泣かないで」
原因は彼女にもあるが、レイチェルを巻き込んだのはマルセル伯爵。クリスティーナを責める気になれなかった。それに、同じ顔で泣かれると正直気まずい。
「これも人助けだと思えばいいのですわ。その……白豚王子? とやらと一晩さえ過ごせば、私は帰れるってことでしょう?」
「え、ええ……。でも、いいのですか? そんなことを引き受けていただいて」
「かまいませんわ。どうせわたくしは一生独身を貫く身。純潔を捧げただけで人助けができるなら……まあ、我慢できなくもないですわ。……多分。それに、どうせ拒否権などないでしょうし」
「本当にごめんなさい……」
「いいんですのよ、あなたが謝らなくても」
再度落ち込み始めたクリスティーナを慰める。
(全く、わたくしは一体何をしているのかしら……)
どうやら一度死んだせいで、すっかり肝が据わってしまったらしい。以前のレイチェルであれば、それこそ自害して嫌がったであろうことを、諦めにも似た気持ちで受け入れてしまっているのだから。
「それにしても“白豚王子”というのは、どんな方ですの?」
まだ泣き続けるクリスティーナの気を逸らすためにも、レイチェルは結婚相手のことを聞くことにした。するとクリスティーナは気まずそうに、モゴモゴと言葉を濁らせる。
「えっと……白豚王子というのはその、第二王子のダミアン殿下のあだ名で……。あっ、もちろんご本人の前では言っちゃいけませんよ!? でも、その、見た目が大変ふくよかでいらっしゃって……」
「なるほど。つまりお太りでいらっしゃると」
「ええ、まあ、そうとも言いますわ……。それからひどい吃音持ちで、そのせいで喋ると豚の鳴き声に似ていると言われていて」
「何というか、ひどい言われようですわね……」
「その上ご本人もとても乱暴で、気に入らないことがあるとすぐ怒って物を投げるとかで……」
「それはだいぶ、いただけませんわね……」
レイチェルは眉をひそめた。太っているのとどもりはしょうがないにしても、乱暴なのは頂けない。皆の手本となるべき王子としてあるまじき行動だ。
「だからこそ、我が家に結婚の打診が来たのだと思います。他の皆さまは、ダミアン殿下が王位継承者でない第二王子ということもあって、みんなお断りしているというお話を聞きましたわ」
「そういうことでしたの……」
レイチェルはため息をついた。残念ながら、一夜限りの夫になる人物はどう聞いても胸がときめけるような相手ではなさそうだ。けれど両親を守るためには覚悟を決めるしかない。
「わかりましたわ。わたくし、精一杯努めさせて頂きます」
レイチェルは大きく息を吸い込むと、落ち着いた声で言った。
◆
結婚式までは、一瞬だった。
マルセル伯爵は、本当にレイチェルが王子と一夜さえ過ごせばいいらしい。クリスティーナの真似もそれほど強要されなかったし、ましてや家庭教師をつけて勉強させるようなこともしなかった。
「お前が王子によって純潔を失った後は、すみやかにクリスティーナと入れ替わるんだ。そうすれば変な波風は起きず、みんなが幸せに過ごせる。くれぐれも余計なことは言うなよ。わかったな?」
「はい、わかりましたわ」
花嫁姿の娘(ただし身代わり)に、こんな厳しい顔をした父親は他にいるだろうか。いや、いない。レイチェルは嫌々ながらもマルセル伯爵の腕に手をかけると、真っ白なヴァージンロードを歩き出す。
小さな教会は、仮にも第二王子の結婚式だというのに、驚くほど人が少なかった。そもそもこの教会自体、王宮からだいぶ離れた場所で隠れるように行われており、どれだけ第二王子の人望がないかということがわかる。参列者の中に国王陛下と王妃、第一王子の姿がなかったら、レイチェルですら信じられなかったくらいだ。
そして新郎の位置に立つのは――。
(あら、もしかしてわたくしより背が低い?)
縦よりも横に伸びてしまったずんぐりとした体型に、猫背になっているせいでさらに背が低く見えるその人が、夫となるダミアン王子なのだろう。服はちゃんと寸法を確認したのかと思うほど背中がピチピチで、いつボタンが弾け飛んでもおかしくない。
その上王子はレイチェルが来たのに気づくと、目を合わせるどころかサッと顔を背けてしまった。仕方なく、レイチェルは気の乗らない顔で横に立った。その後何やら長ったらしい誓いの言葉を言わされ、少ないながらも熱のこもった拍手を受け(主にマルセル伯爵の座っているあたりから)、おでこにチュッとされたかと思うと、あっという間に結婚式は終わった。
◆
「で、いつ来るのかしら。あの方は」
新婚夫婦のために与えられた離宮の一室、広いベッドに鎮座しながらレイチェルはイライラしたように言った。
先ほどから、ヒラッヒラでフリッフリのナイトドレスに身を包んで夫となった人物を待っているのだが、待てども暮らせども一向に来る気配がない。
(一体何をしていますの? 無事にことが終われば、わたくしは解放されますというのに……)
待ち疲れて、気分がささくれ立ち始めている。こう言うのは待っている側だって緊張するのだ。
(それともまさか、来ないつもり?)
何せ結婚式では、まともに顔も見えないぐらい露骨にレイチェルのことを避けていた。ありえない話ではない。
「ならば、私から行くまでですわ!」
レイチェルはガウンを羽織ると、柔らかなスリッパを履いて部屋を飛び出した。どうも一度死んでから、恥じらいもどこかに落としてきてしまったらしく、淑女らしくない振る舞いも平気でできる。
そうして捕まえた侍女に案内させた小さな部屋で、文机を前にぼんやりと座るダミアン王子の姿を見つけたのだ。
「見つけましたわ! ここにいらっしゃいましたのね!」
人払いをし、扉を開けるなり叫んだレイチェルを見て、王子の口から「ヒィッ」と悲鳴が漏れる。そのままズンズンと詰め寄ると、ダミアン王子は狼に遭遇した豚のように慌てふためき、後ずさった。
「く、く、っ、く、くる、くる、くるな!」
(どもり持ちというのは本当ですわね。でも、お顔は意外と悪くないんじゃなくて?)
レイチェルは目の前の夫をじっくりと観察した。
色々と肉に埋もれているせいで到底美男には見えないが、大きな青い瞳はぱっちりとしてまあ可愛いと言えなくもないし、白豚と呼ばれるだけあってお肌は陶器のように滑らか。くるりと巻き気味の金髪もなかなか綺麗な色をしていて、全体的に覚悟していたほど酷くはない。……気がする。
「き、き、きみ、きみは! な、なん、なん、なんなん、だ!」
(こんな短い単語を話すのに、そんなに時間がかかりますの? ……大変そうだわ)
真っ赤になった顔からして、本当はもっと言いたいことがたくさんあるのだろう。だが重度のどもりのせいで、ほとんどが言えてないようだ。
彼はレイチェルに立ち去る気配がないことを知ると、そばの長椅子にあったクッションを手当たり次第投げ始めた。
「あ、あ、あ、あっち! あっち!」
「きゃっ!」
(怒って物を投げるという話も本当ですわね!)
何とか避けるが、すぐさま追加のクッションやらブランケットやらが手当たり次第に飛んでくる。幸いなのは、花瓶などの危険物が混じってなかったことだろうか。
(――いえ、混じってないんじゃなくて、最初から置いてないんですわね、きっと)
レイチェルは考え直した。
離宮とは言え王族が住まう場所に、花瓶の一つも置いてないわけがない。これはダミアン王子の癖を知っている周囲のものが、わざと置かなかったのだろう。
(それだけ、殿下の性格が知れ渡っているということ……)
眉をひそめて、レイチェルは再度目の前にいる王子を観察した。
――泣いてないのが不思議なくらい顔を真っ赤に歪め、幼い子供のような癇癪を起こしてレイチェルを追い払おうとする姿は、とても十五歳になる王子の振る舞いには見えない。年下とはいえ、あまりにも幼稚すぎた。
(わたくしの知っている王子は、こんな方ではなかったわ。あの方は幼い頃から努力家で、いつも凛としていて……)
そこまで考えてハッとする。
(やだ、ここまで来てまだあの方を思い出しているなんて。やめましょう。不毛ですし失礼ですわ)
つい前世で愛した王子と目の前の王子を比べてしまい、レイチェルは小さく頭を振った。
(今はそれよりも目の前のこと。どうにかこの方に、わたくしの純潔を奪って頂かなくては)
普通の令嬢が聞けば失神しそうなことを考えながら、レイチェルはジリジリとダミアンに近づいていく。相変わらず手当たり次第に物が飛んでくるが、まずは彼と落ち着いて話をしたかった。
「ねえ、別に何も、取って食べようというわけじゃありませんのよ。わたくしはほんの少し……そうね、あなたとお話がしたいの」
つい口調が幼児に話しかけるそれになってしまうが、咎めてくるような相手でもない。というより、咎めたくてもあのどもりでは怒るのも難しいはずだ。ひょいと、枕をよけながらレイチェルは続ける。
「そうね、何から始めましょうか。まずはわたくしの自己紹介から行きましょう。わたくしは、レイチェ……、ええと、クリスティーナよ」
(しまった! わたくしとしたことが)
飛んでくる物を避けるのに神経を使いすぎて、うっかり本名を口にしてしまった。慌てて言い直し、取り繕うように微笑んでみせる。
(ま、まだ大丈夫よ。殿下はわたくしに興味がなさそうだったし、もしかしたら聞き逃している可能性も――)
けれど、彼女の期待に反して、レイチェルという名にピクリとダミアン王子の動きが止まった。同時に先ほどまでの子供じみた表情から一変して、鋭く、知性すら感じさせる瞳でレイチェルを見たのだ。
思わぬ反応に、今度はレイチェルが驚く番だった。
(この方、こんな瞳もできますの?)
それは、とてつもない発見に思えた。まるで砂の中から砂金を見つけたような、石ころの中からダイヤの原石を見つけたような――。
一滴のしずくが水面に落ちてさざ波を作るかのごとく、気付けばレイチェルの中に静かな好奇心が湧き上がっていた。それは危うい好奇心でもあった。
(この方に、真実を話したらどうなるのかしら。怒る? 泣く? それとも……)
そんな危険を冒してはいけない、このまま誤魔化せと理性が警告を鳴らしてくるが、同時に「誤魔化せない」という予感もしていた。
しばらく考えた末に、レイチェルは思い切って口を開く。
「てっきり、あなたはわたくしに興味がないから平気かと思っていましたのに……その様子だと気付いてしまわれましたね?」
まずは様子見として軽い調子で言うと、ダミアン王子がさらに深くレイチェルを見つめた。その瞳は、警戒と興味の両方で爛々と光っている。王子の妖しい光に釣られるように、レイチェルは続けた。
「ごめんあそばせ。実はわたくし、あなたの妻になるはずだったクリスティーナではありませんのよ。ただの平民。いわゆる身代わりというやつですわ。――怒りまして?」
(言ってしまったわ!)
表面上平静を装っているが、内心不敬極まりない発言にレイチェルは心臓が破裂しそうだった。
それに対して、ダミアンの下唇が不機嫌そうにヌッと突き出される。が、彼はすぐに顔を引き締めたかと思うと、ゆっくりと首を横に振った。その顔にはどこか諦めの雰囲気が浮かんでおり、寂しささえ感じられる。
(やっぱりこの方、意外と――)
予感が確信に変わるのを感じながら、レイチェルは尋ねた。
「あなた、怒らないんですの? どう考えたって、不敬罪に当たりますのに」
「そ、そ、それ、それ、それは……」
ダミアンは何か言おうとして……けれどうまく言えず、黙り込んだ。
その顔から滲み出る苦渋は、きっと彼がこうして言うのをやめた言葉が一つや二つではないということを如実に語っている。
(……気の毒ですわ)
レイチェルの中に、同情が生まれ始めていた。王子という、常人より遥かに恵まれた立場でありながら、彼はきっとその幸運をうまく享受できていないのだろう。まるで昔のレイチェルのように。
(いえ、苦しいことも多かったけれど、わたくしの方が遥かに公爵令嬢生活を楽しんでいましたわ。それと比べてしまうのは、彼に失礼かもしれない……)
レイチェルは辺りを見渡した。喋るのがだめなら、筆記はどうだろう。先ほど見た机の上に、羽ペンがあったはずだ。
「あっ、ありましたわ」
目当てのものを見つけ、嬉々として文机に歩み寄る。それからふと、羽ペンのそばに開かれている小さな手帳に目が吸い寄せられた。開かれた頁は、びっしりと手書きの文字やら記号やらで埋め尽くされていたのだ。
「あら?」
「あっ」
レイチェルが本を覗き込むと、ダミアンは小さく声を上げた。
どうやらこれは彼が書いたものらしい。十五歳とは思えぬ、流れるような美しい字。ついつい魅了され、個人的な手帳であることも忘れてレイチェルは中身を読もうとした。
「あ、あ、ああ、あの、あの!」
とたん、ドタドタと体を揺すりながら、顔を真っ赤にしたダミアンが走ってくる。そこでレイチェルはやっと手帳から目を離した。
「ごめんなさい! わたくしったらつい……。それにしてもあなた、字がとても綺麗ですのね。先生の書くお手本のようだわ」
感心して褒めれば、彼は首を横に振り、困ったように口元をもにゅもにゅと動かす。
「ね、何か他に書ける端切れはないかしら。あなたの気持ちを紙に書いてくれればいいと思うのよ」
手帳はあるが、それは彼の大事なものだろう。流石に使わせるわけにはいかない――と考えていたのに、肝心の本人は、なんとためらうことなくサラサラと手帳にペンを走らせ始めた。
「あっ! それを使っていいんですの?」
戸惑うレイチェルを尻目に、彼は手帳をヌッと突き出す。
『ここに書く』
「……まあ、あなたがいいのなら、わたくしは構いませんけれど」
レイチェルが言えば、ダミアンはコクリと頷いた。それからすぐにまた何かを書いて、目の前に突き出してくる。
『先程のことだけど、君が身代わりだとしても、僕は怒らない。何故なら僕には資格がないからだ』
「資格がないってどう言うことですの? ……まさかあなたも身代わり?」
その答えに彼は面食らったようだった。ブンブンと首を振ってから、慌ててペンを走らせる。
『違う。僕は本物だ。でも見ての通り、醜い上にまともに喋ることもできない、“できそこない”なんだ』
「つまり……あなたは“できそこない”だから、家臣が身代わりの娘を寄越してきてもしょうがないと、受け入れるおつもりなのね?」
問いかければ、そうだとでも言いたげにダミアンが憮然とした顔でうなずく。
(確かに、この方は太っていて、うまく喋れなくて、何より振る舞いが乱暴。王族としては失格ですわ。……でも)
ダミアンの言葉に、なぜかレイチェルの方が言いようのないモヤモヤを感じていた。何故そう感じるのかわからないまま、正体を見つけるために心の中で整理する。
――先程、彼が投げてきたのはクッションやブランケットなど、当たってもそこまで痛くないものばかり。もちろん花瓶などは最初から置かれていなかったが、ペンを投げることだってできたはずだ。
――次に、レイチェルが真実を告白した時。彼は怒り狂って暴れることもなく、自分がいたらないせいだからと静かに受け入れた。
――そして最後に一つ、大きく気になることがあった。
「……あなた、できそこないと言うには少し早いと思いますの」
言いながら、レイチェルは手帳を指さす。
「そこに書かれているのは、気象観測の記録じゃなくって?」
先程チラリと見えた手帳に記されていたのは、一見するとただの天気の記録にも見える。だがそこには、温度や気圧の数字に加え、風向きや風力など、資料とも呼ぶべき情報がびっしりと書かれていたのだ。
レイチェルの指摘にダミアンは目を丸くした。サラサラと、手帳に新たな言葉が書き足される。
『なぜ気象観測だとわかった?』
「ちょっとした嗜み、ですわ」
ダミアンの問いに、うふふと笑って誤魔化す。まさか前世で、家に来ていた家庭教師に見方を教えてもらったなどとは説明できない。
「それよりも……こんな緻密な記録が書ける人が“できそこない”って、ちょっと説得力に欠けますわよ。そもそも本物のお馬鹿さんは、文章なんか書きませんし」
レイチェルは前世で、いわゆる本物のお馬鹿さんを見たことがある。
伯爵令息だったその男は見た目こそよかったものの、頭にあるのは女と酒とギャンブルばかり。振る舞いも軽薄そのもので、当時王子の婚約者だったレイチェルにすら手を出そうとしてきたため、思いっきり横っ面を叩いたことがあった。
そんな彼と比べたら――比べるのは大変失礼だと言うことはさておき――物を投げるという大きな欠点こそあれ、不敬極まりない発言にも取り乱さず、さらに気象観測のような根気と知識を必要とする作業ができるダミアンは、できそこないとは言えない気がしたのだ。
「そんな風に自分を卑下するのはおやめくださいませ。人間、誰でも多少の欠点はありますから、その範囲内でしてよ。そうね、物を投げる癖はきっちり直すとして……あなたが名乗っていいのは、せいぜい“変わり者”ぐらいかしら?」
これまた王子相手に失礼極まりない発言である。
だが肝心のダミアンはと言うと、やはり怒るでも泣くでもなく、どうしたらいいかわからないような、途方にくれた顔をしただけだった。
「んもう、まどろっこしいですわね! よろしくてよ。ならわたくしが、あなたができそこないじゃないってこと、証明して差し上げますわ!」
本来の目的も忘れ、レイチェルは腰に手を当てて言い放った。
――これが二人の、長い付き合いの始まりとなることも知らずに。
「その前にまず、なぜあなたが気象観測をしているのか教えてくださらない?」
善は急げとばかりに、レイチェルは勝手にソファに腰掛けると質問した。一方のダミアンは戸惑っているようだ。無理もない。妻とは言えほぼ初対面の人間に突然根掘り葉掘り聞かれて、戸惑わない人の方が少ないだろう。
ダミアンの手が全然動きそうにないのを見て、レイチェルが一歩にじり寄る。
「教えてくれないなら、抱きつきますわよ」
とたんにダミアンが慌てふためいてペンを走らせた。
予想通り、どうもこの王子はレイチェルに近づかれるのが嫌らしい。乙女としては複雑な心境だが、それを逆手に取って脅しをかけるレイチェルも、もはや乙女と呼べるかどうか怪しい。
『空を見るのが好きなんだ。気象観測を始めたのは、先生が僕に教えてくれたから』
「先生?」
『前の環境大臣。名前が長いから、勝手に先生って呼んでいる』
「仲が良かったんですの?」
『仲良くはなかった。でも彼が色々教えてくれた。今はもう隠居したけど』
「優しい方なんですのね」
『優しい……よくわからない。変な人だったよ。家庭教師でもないのに、毎日やってきて勝手にあれこれ教えていくんだ』
紙の上のダミアンは、驚くほど饒舌だった。レイチェルが一つ聞けば手元が素早く動き、弾むように答えが返ってくる。いそいそと書き上げた文章を見せてくる様子は、小さな子供が摘んだ花を母親に持ってくるのにそっくりだ。
本人もその事に気づいたのだろう。彼はハッとして、手帳を大きなお尻の後ろに隠してしまう。
「あら、なぜ? もっとあなたのお話を聞きたいわ」
ダミアンを怯えさせないよう、レイチェルは優しく語りかける。
せかさずじっと待っていると、やがて、そろりそろりと巣穴から出てくる野ブタのように、ダミアンがそっと日記を差し出した。
『そもそも君は、なんで僕ができそこないじゃないって“証明”しようとするの?』
「それは……」
聞かれて、今度はレイチェルが考え込んだ。
冷静に考えれば、ダミアンができそこないじゃないと証明しなきゃいけない理由なんてどこにもない。それよりもさっさと目的を達成し、家に帰った方がいいだろう。
にも関わらず、彼女が彼にこだわった理由。
「……後悔、したくないからかもしれませんわね」
自分に聞かせるように、ぽつりと呟いた。
前世では、立場や家柄を気にするあまり、たくさんのことを我慢してきた。
「公爵令嬢たるもの品よく貞淑に」とばあやに叩き込まれ、婚約者である王子からデートに誘われてもほとんど応じたことはない。本当は行きたくてたまらなかったのに、「男性と軽々しく外出なんて」と跳ね除けたのは他でもない自分だった。
結果、婚約者は突然やってきた聖女とやらに心を奪われてしまった。
(当時は悔しさと悲しさでいっぱいだったけれど、一度死んだからかしら。今ならわたくしの至らない所もわかるわ)
思い出すのは、レイチェルが誘いを断る度、少し寂しそうな表情をした婚約者の顔。それから、めげずにずっと誘ってくれた彼の姿。そして最後に、悩み、迷い、やっとのことで本音を告白してきた彼の声。
そんな前世の婚約者を、レイチェルは憎んではいなかった。ただずっと後悔していたのだ。――もっと優しくできていたのなら、本音で語り合えていたのなら、何か変わっていたのかしら、と。
『何の後悔?』
「わたくしの個人的な後悔ですわ。だってあなた、このまま放っておいたら一生“できそこない”のままでいる気でしょう?」
『できそこないのままじゃなくて、できそこないなんだ』
「ほら、そう言うところよ。まずは自分を卑下するところから直さないと」
言って、レイチェルは考える。
(こういうのってなんて言うのかしら? お節介? でしゃばり? どちらにしろ――わたくし、この王子の事が嫌いじゃないんですわね、きっと)
初めに抱いたのは同情心だったが、彼の思わぬ一面を知って興味が湧いてしまった。だから家に帰ることより、ダミアンを優先することにしたのだ。
「それにあなたは私の“夫”でしょう? 夫のために助けになりたいと思うのは、普通の事じゃなくって?」
『君は身代わりなのに?』
「ええ。身代わりよ。でも、困っている人がいたら助けてあげる。わたくしは両親と村のみんなにそう教えてもらいましたわ。あなたはそうじゃないの?」
今まで誰も彼を助けてあげなかったのだろうか? そんな疑問を投げると、ダミアンはすぐにふるふると首を横に振った。
『先生以外、助けどころか、誰も僕と話をしたがらないよ。だって僕がそう仕向けているんだから』
「そうなんですの? 今はわたくしとお話ししてくださっているのに?」
『それは君がしつこいから。今までは大体物を投げれば、みんな諦めていったんだ』
「わたくしってしつこいんですの? ……ふふ、そう言われたのは初めてですわ」
初めての単語に、レイチェルは思わず笑みをこぼす。
今まで誰かに、しつこいなんて言われたことはない。前世では公爵令嬢というプライドから、常に毅然とした――周りから見れば傲慢ともとれる――態度を貫き通していたし、今世ではしつこく聞かなくてもみんなの方から教えてくれた。
『君も変な人だな。全然褒めてないのに』
「ふふ、先生と同じぐらい変?」
レイチェルがイタズラっぽく聞くと、ダミアンは首を捻ってうーんと考える。それから、
『変』
とだけ書かれた日記を突き出した。
「では、お互い変人同士、仲良くしてくださらない?」
悪巧みを誘うように問いかけると、ダミアンはしぶしぶと言った顔で頷いた。
◆
「白い結婚とは、いったいどう言う事なんだ!」
「お父さま、声が大きいですわ、周りに聞かれてしまいましてよ?」
翌日。首尾を確かめに来たマルセル伯爵は、彼女の報告を聞くと顔を真っ赤にして詰め寄ってきた。レイチェルが紅茶を飲みながらやんわり窘めると、メイドの目を気にしたマルセル伯爵が行儀良く座り直す。
「おほん。……それで、どうする気なんだ? 我が娘クリスティーナよ」
「そうですわねえ……。こればっかりはわたくし一人でできることではありませんから……」
「クリスティーナ!」
「大丈夫ですわお父さま。ちゃんと策は考えてあります。ただ、あの臆病な王子を動かすには、少し時間がかかると思いますの。待ってくれますわよね?」
それからそっと顔を寄せて、マルセル伯爵にだけ聞こえるよう囁く。
「その間、くれぐれもわたくしの両親をお願いいたしますわ。もし彼らに何かあったら……わたくし気が動転して、あることないこと、国王陛下に吹き込んでしまうかもしれません」
暗に“両親に何かあったら全部告げ口して伯爵家もろとも潰してやる”と脅せば、男の顔がぶるぶると震えた。本当は怒鳴りたくてたまらないのだろう。が、そばには何人ものメイドが控え、常にこちらの様子を窺っている。
(今は形勢逆転していること、ようやく気づいたかしら?)
実はこれが、レイチェルがあっさりと彼の企みを受け入れたもう一つの理由だった。
“妃殿下”となった娘の権力は、時に実親であるマルセル伯爵よりも上になる。
ただの村娘だったら、脅してきた貴族を脅し返そうなどという恐れ多いことは考えなかったかもしれない。だがレイチェルは貴族社会で長年過ごした元公爵令嬢。黙ってやられるほどやわではなかった。
非常に危険な賭けではあったが、さいわい今のレイチェルには勝機が見えている。ダミアンが、身代わりである彼女を受け入れてくれたからだ。
(もう少しダミアンさまと仲良くなって土台を固めたら、頃合いを見て両親の保護をお願いしなければ。脅しが効いているうちはいいけれど、いつこの男の限界が来るかわかりませんもの)
マルセル伯爵に脅しをかけた以上、すでに“一夜だけ過ごして元通りの生活に戻る”という選択肢は消え去った。これからはいかにマルセル伯爵を飼い殺しながら、両親と自分の身の安全を確保するかにかかっている。
(そもそも、わたくしが役目を果たしたとしても、この男が安全を保障してくれるとは限りませんしね……)
人を雇い、家族ごと葬り去れば秘密は永遠に闇の中。マルセル伯爵なら平気でやりそうな手だ。むしろその可能性の方が強いと、今になって思う。
「大丈夫です。わたくし、お父さまの悪いようにはいたしませんわ。こんないい生活をさせてくれたんですもの……きっと恩返しいたします。王家との繋がりが欲しいのでしょう? ゆくゆくは官職にお父様をと、国王陛下にお願いするつもりです。どう? クリスティーナにこんな考えができまして?」
猫なで声を出しながら鞭の後に飴を差し出せば、多少機嫌を直したらしいマルセル伯爵が顎髭をなでた。純粋無垢なクリスティーナには考えつけない政でも、レイチェルならできるということに気づいたのだ。
「ふむ……。まあ、わかっているならいい。その調子で励めよ」
「はい、お父さま」
にっこりと、心の奥では全く笑ってない笑顔でマルセル伯爵を玄関まで見送ると、話は済んだとばかりにレイチェルは伸びをした。それから気を取り直して腕まくりをする。
「そんなことより、ダミアンさまですわね」
◆
『これは何?』
テーブルにずらりと並べられた昼食を前に、ダミアンは怪訝な顔をして手帳を差し出した。その隣には、ニコニコ顔のレイチェルが座っている。
「今日のメニューは鳥もも肉のハーブソテーに、野菜たっぷりパワーサラダ。さらにこちらも野菜たっぷりヘルシースープに、デザートの林檎ですわ」
『そうじゃなくて、いつもと全然メニューが違う気がするんだけど』
「ええ、だってシェフに確認しましたら、あなたの好きな食べ物って脂身ばっかりなんですもの。牛肉に豚肉にバターにマーガリンにチーズにケーキにマフィンに……。そんなんじゃ、肥える一方ですわ」
全く、困った人ねとでも言うようにレイチェルは頬に手を当てた。
一方、“肥える”と言う単語に思うところがあったらしいダミアンは、何も言わずに渋い顔で目の前の食事を見つめている。
「ダミアンさま、本当は痩せたいのでしょう?」
レイチェルが声を抑え、そっと囁いた。
「だったらやはり食事ですわ。それから運動。わたくしも一緒に頑張りますから、どちらも無理のない範囲で頑張りましょう。ね?」
長い沈黙の後、ダミアンは返事の代わりにスプーンを手に取った。それからスープを一口含み、何も言わずにモギュモギュとレタスを噛み締める。泥でも食べているかのような表情だったが、なんとか飲み込むと、やはり何も言わずにチキンソテーを口に運んでいく。だんだん食べるペースが速くなっているあたり、味は問題ないらしい。
「お気に召したみたいで良かったですわ。実はわたくし、料理は得意なんですの」
レイチェルが言うと、ダミアンがむぐっと喉に詰まらせかけた。慌ててレモン水を飲み干し、手帳を突き出す。
『君が作ったの?』
「はい。さすが王宮ですわね、良い食材がよりどりみどり……シェフの仕事を奪わないようにするのが大変でしたわ」
レイチェルは食材の豊富さを思い出して、うっとりと目をつぶった。
平民であるレイチェルは、当然自分で料理をする。さらに飯屋の厨房にも時々立たせてもらっていたから、腕にも自信があった。
「まあ! 綺麗に完食! 嬉しいですわ。おやつにはブルーベリーをつまみましょうね。次の気象観測が終わったら、夕食の前に私と軽く体操しましょう」
太っている人がいきなり運動をすると、足腰をやられると村人から聞いた事がある。レイチェルはダミアンの日課となっている気象観測が終わるのを待つと、以前伝授してもらったお年寄りにも優しいという体操を一緒に始めた。
「はい! 伸ばして〜! 両腕あげて〜! しゃがんで〜!」
騎士たちが稽古時に着るようなシャツとズボンという軽装に着替え、レイチェルとダミアンは庭で体操をしていた。その隣でヴァイオリンを抱えた音楽家が、死んだ顔で妙に軽快なリズムの音楽を奏でている。
「んっ! 意外と、これ、馬鹿にできませんわね! 結構、息が、切れますわ! ねっ! ダミアン、さま!」
腕をぐるぐると回しながらレイチェルが言えば、その隣ではダミアンがフゥフゥと顔を真っ赤にしながら体操している。老人向けと聞いていたが、今のダミアンにとっては十分すぎる運動らしい。
「さ、体操が終わったら、次は夕食ですわ! 野菜と魚介のゼリー寄せに、トマトと野菜の具沢山スープ。デザートには大盤振る舞いで、さっぱりしたレモンのチーズケーキ。今回はシェフと一緒に考えましたの」
夕方の観測を終え、再び食事の席についたレイチェルが説明しながらシェフを指し示す。大きな体に似合わずつぶらな瞳を持つシェフは、うるうると瞳を潤ませていた。
「おお、ダミアン殿下が野菜を食べているなんて……! 厨房を任されるようになって早数十年、私、大変感激であります」
「ダミアン。あなた今までお野菜を食べなかったの?」
彼女の問いに、その場にいた者たちに緊張が走る。
レイチェルは知らなかったのだが、今まで食事の時に嫌いなものを無理に勧めると、とたんにダミアンは癇癪を起こしていたのだ。
けれど今のダミアンはふいと顔を背けただけで、文句も言わず、癇癪も起こさず、ただモギュモギュと葉っぱを咀嚼するばかり。
興奮した侍女に、「妃殿下は、一体どんな魔法を使われたのですか!?」と聞かれても、レイチェルにはこう答えることしかできなかった。
「『肥える一方ですわよ』と言ったのが効いたのかしら?」
それは誰にも真似できません、と言った侍女の表情は笑っていた。
◆
「これは何ですの?」
『水銀気圧計。割れたら危険だからあまり触らないで』
「この丸いのは? 綺麗ですわ」
『ストームグラス。大まかな天気が予測できるんだ』
「あっこれは知っていますわ。風見鶏! でもなぜ室内に?」
『デザインが好きで集めている』
「あらっ! すごい。これ全部観測記録ですの!?」
『正式なものは見やすいよう、全部ここに書き写してある。手帳はただのメモだよ』
日を重ねるにつれ、二人の距離はどんどん縮んでいった。初めは近づくだけでも嫌がっていたダミアンがいつしかそばに寄っても怒らなくなり、ついには塔にある、彼の“研究室”に入ることまで許された。
初めて見る不思議な形の装置に驚きの声をあげれば、すぐにいそいそと説明が寄越される。ダミアンの説明は非常にわかりやすく親切で、読めばレイチェルですら使いこなせそうな気がしてくるほどだ――実際には気がするだけだが。
レイチェルが褒めると、ダミアンは顔を真っ赤にし、また大量の注意点やらうんちくやらを書いて寄越す。レイチェルはそんな彼を見るのが好きだった。
天気について語っているダミアンは、夜空に瞬く星のように瞳がいきいきと輝き、とても楽しそうだからだ。
「今日は会わせたい人たちがいますの」
すっかり日課となった朝の体操を終え、レイチェルはおもむろに切り出した。途端にダミアンの顔に警戒が走る。彼はだいぶレイチェルに懐いてきてはいたが、それ以外の人間に対してはまだまだ自分の殻に閉じこもりがちだ。
「そんなに警戒なさらないで。ダミアンさまもよく知っているあの方もいらっしゃいますわ。……ほら、皆様こちらへどうぞ、先生も」
やってきたのは、隠居した前の環境大臣であり、ダミアンに気象観測を教えた先生その人。ダミアンに負けず劣らずの小柄さに、禿げ上がった頭は磨いた玉のようにツルツルで、いかにも人の良さそうな好々爺だ。
その後ろを、まだ年若い役人が二人、おずおずとついてきている。
「おおお、これはこれはダミアン殿下! お元気そうでようございました。もう一度お会いできる機会を作っていただき、妃殿下にもまこと感謝申し上げる。わしは嬉しいですぞ。なんでもまだ観測を続けておられるのだとか! 結構、結構。何事も継続ですからな」
ニコニコしながら早口でまくし立てる先生を、ダミアンは目を見開いて見つめている。その顔に喜びらしき感情は浮かんでおらず、不安になったレイチェルはそっとダミアンに囁いた。
「……もしかして、呼ばない方がよかったかしら? あなたがよく先生の話をしているから、お会いしたいのかと思って呼んだのですけれど……」
ダミアンがレイチェルを見た。それからいつもの手帳にペンが走る。
『驚いただけだよ』
そこで一旦ダミアンは手を止め、しばらく考えてから再度さらさらと書き出した。
『正直自分でもよくわからないけど、嬉しいんだと思う。……多分』
最後の方は自信なさげになった筆跡を見て、レイチェルは微笑んだ。そんな二人を見ながら先生がカッカと笑う。
「おお、相変わらず殿下は寡黙でいらっしゃる。結構、結構。昔からそうでしたな。それでいてわしが話している間、瞳だけはキラキラとしているもんですから、すぐわかりましたよ。あなたが心から喜んで話を聞いていると」
「そうなんですの。ダミアンさまって、意外と瞳に感情が出ますわよね?」
「さすが妃殿下、よく見抜いていらっしゃる。殿下は色々と勘違いされやすいですが、この方ほど知的探究心に溢れ、かつ研究熱心な生徒をわしは未だかつて見たことがありませんよ。いまだ忘れられません、初めて殿下とお会いした時に――」
「先生、話の腰を折って申し訳ないのですけれど、後ろのお二人を紹介して頂いても?」
放っておけば永遠に一人でダミアンのことを話し続けそうな先生を、レイチェルが素早く止めた。
「おおっと失礼! わしとしたことが殿下の話で盛り上がりすぎてしもうたわい」
ぺちん、と禿げあがった頭を叩いて先生が二人を指さす。いかにも育ちのいいお坊ちゃま、と言った風情の役人たちが慌てて頭を下げた。
「この二人はわしが現役だった頃の補佐官での。殿下の気象観測のことを話したらぜひ見せて欲しいと頼まれたので、連れてきたんじゃ」
「わたくしが許可しましたの。もし嫌ならおっしゃってくださいませ、殿下」
ダミアンには同世代の友達がいない。というよりそもそも友達がいない。だから先生から話を聞いた時、レイチェルは考えたのだ。あわよくばこの二人を、部下兼友達にできないものかと。
こう見えて二人ともいい家の令息であるため、彼らがダミアンの人となりを知れば、評判回復の役目を果たしてくれる可能性もある。
――そうしたレイチェルの下心ありありの企みは、見事成功した。
例の二人はダミアンに負けず劣らずの“気象愛好家”だったようで、
「すごい! 緻密! すごい! 王宮に保管してあるものより詳細に書いてある!」
「一体何年分あるんですかこの資料! まさかこれをずっとお一人で!?」
と、キャッキャと盛り上がったかと思うと、ダミアンを即“優秀な研究者”の座に置いて、崇め始めてしまったのだ。
始めはひたすらブスッとしていたダミアンも――ちなみにこれは彼の照れ隠しの癖である――褒め言葉の猛攻撃に、あっさり陥落。気がつけば手帳を駆使しながら、二人とすっかり打ち解けてしまっていた。
そんな穏やかな日々を過ごすうちに、気づけばダミアンにはささやかな変化が訪れ始めていた。
まず、数ヶ月にわたる必死の食生活改善と運動により、劇的に痩せた。
多少のぽっちゃりさは残っているものの、肉に埋もれていた各所のパーツが明確に現れ始め、同時に良質なお肉を摂取したからか、はたまた単に成長期のおかげなのか、背がすくすく伸び始めた。
人とは恐ろしいもので、外見が変わると、その人の評価が百八十度変わってしまうこともある。
「ねえ、最近のダミアン殿下って、ちょっとステキじゃない?」
「わかる。あのくらいのぽっちゃりなら、全然アリよね」
なんて、多少失礼な侍女たちの噂話も聞こえてくるくらい。
次に、以前は酷かった癇癪――気に入らないとすぐに物を投げる癖――が激減、いや、消滅したと言ってもいい。これは純粋に自分のおかげだと、レイチェルは自負していた。
なぜならダミアンが物を投げるのは、どもりによって意思疎通がうまくできない時だ。そのためレイチェルは常に彼に付き添い、周りとの橋渡し役となることで、癇癪の元を断ち切ることに成功した。
おかげで最近のダミアンは、憑き物が落ちたかのように、穏やかとも言える人物になっている。
これには国王や王妃、兄王子までもがレイチェルに礼を述べに現れ、特に王妃は泣きながらレイチェルの手に口付けさえ落とした。王妃は母として、ずっとダミアンのことを思いながらも、うまく助けてあげられなかったらしい。こぼれる涙に長年の苦悩が見えた気がして、レイチェルはそっと細い手を握り返した。
さらに、ダミアンが一人で黙々と続けていた気象観測と研究は相当なものだったらしい。先生と二人の補佐官だけでなく、気付けば色んな人が彼を頼ってくるようになった。
農作物の育ちは天気によって左右され、航海士たちの安全も海の天気にかかっている。その他にも大雨や日照りなどの天災対策、戦で天候を利用した戦い方など、天気予測の活用法は多岐にわたる。
彼の記録した天気記録と予測情報を求め、小さな研究室には、ひっきりなしに人が訪れるようになっていた。
◆
「ねえ、気付いてらして? 今やもう、誰もあなたを“できそこない”なんて思っていませんわよ」
夕食を終えた二人は、庭の長椅子で夜空を見上げていた。夜間の雲の動きや濃さも重要だと彼が言うため、こうして時々一緒に夜空を眺めるのだ。
『まだ早いよ。吃音は全然治っていないんだし』
さらさらと紡ぎ出される筆跡は相変わらず美しくなめらかで、なんでもない言葉すら、詩歌の一節に見えてしまう気がする。
「それはこれから気長に治せばいいんですわ。馬は馬方と言いますでしょう? 何人か、良さそうな医師は目星をつけていますのよ」
『それはそうだけど……問題は吃音だけじゃない気がする。もし君がいなくなったら、また何もできない頃に逆戻りしてしまうかもしれない』
レイチェルは驚いて彼を見た。
「それ、ちょっと口説き文句に聞こえますわね」
からかうと、とたんにダミアンの顔が赤くなる。こういう所ではまだまだうぶなのだ。ちなみに二人の白い結婚もいまだ継続中である。
「大丈夫ですわ」
言いながら、レイチェルはコツンと、ダミアンの肩に自分の頭を預けた。すぐさま彼の体が緊張で強張る。
「あなたは立派になりましたわ。それはみんなが知っているもの。わたくしがいなくても、きっとうまくやっていけます」
(そう……もうわたくしがいなくても、ダミアンさまは立派にやっていけるわ。それならわたくしは、これからどうするべきなのかしら……)
数ヶ月かけて絆を深めながらも、ダミアンは決してレイチェルに触れようとはしなかった。
レイチェルが身代わりであるということは彼も知っている。その上で、彼からはいていいとも、いなくていいとも言われていない。
(流石に身代わりがずっと居座るのは、無理がありますわよね……。わたくしも、新しい身の振り方を考えなければいけないかもしれない)
それはここ最近、レイチェルがずっと考え、悩んでいたことだった。
◆
「ああ、レイチェル! 会えて嬉しいわ」
「さあ可愛いお顔を、もっと母さんと父さんに見せてくれ」
数ヶ月ぶりに会った両親は、泣きながらレイチェルを抱きしめた。
ここはレイチェルやダミアンが暮らす離宮の一室。
レイチェルは、ついに両親をマルセル伯爵の監視下から連れ出すことにしたのだ。当初はマルセル伯爵を追放した後、安全な国を探しそこに身を隠す計画を立てていたが、王宮医なら母の病気を治せるかもしれないことが判明。散々悩んだ末に連れてきたのは、ダミアンの後押しがあったからだ。
『離宮に連れてくれば、僕が手出しをさせない』
彼にしては珍しく力強い筆跡で書かれたその一文は、王族らしい威厳に溢れていた。もう大丈夫だと、レイチェルが思えるほどに。
だからレイチェルは決行した。そのタイミングでもう一人、呼び寄せる。
「本当に、なんとお礼を申し上げたらいいのか……! 妃殿下には感謝しても、しきれません」
そう言って頭を垂れた若い騎士は、何を隠そう、クリスティーナの恋人だった。彼はマルセル伯爵の手によって北の僻地に飛ばされていたのだが、それをダミアンの護衛騎士として連れ戻したのだ。ダミアン付きになれば、マルセル伯爵にも手は出せない。そうしてゆくゆくは、手紙でマルセル伯爵のことを報告してくれているクリスティーナと再会させるつもりだった。
全てがうまくいっていた。行き過ぎ、とも言えるほどに。
――だからレイチェルは、油断していたのだ。
「妃殿下、妹と名乗る方がお見えになっております。お会いされますか?」
やってきたのは、最近小間使いとして入った少年。両親のために新しい小間使いを何人か増やしており、この少年もその一人だった。
「妹?」
「はい、名をレイチェルと。妃殿下とよく似ていらっしゃって……泣いておりました」
まだ関係性をよく把握できていないのだろう。小間使いは自信なさげに答えた。
(レイチェルの名を知っていて、なおかつよく似ている人物と言えばクリスティーナよね? どうしたのかしら?)
何か深刻な事態になっているのだろうか。泣いているという言葉に、レイチェルは慌てて飛び出していく。足早に歩きながら小間使いに確認する。
「お父さまも一緒?」
「ええと、お父君はいらっしゃらなかったと思いますが……」
「そう、ならいいわ」
案内されたのは、貴賓室から少し離れた庭の片隅。そこでクリスティーナは、草むらに隠れるようにして泣いていた。
小間使いを帰らせ慌てて駆け寄ると、クリスティーナが泣きながらレイチェルに謝る。
「ごめんなさい、レイチェルさま、わたくし……」
「一体どうしたの? 何があって?」
「何かあったのは、お前の方だ。この偽物めが!」
冷たい声が、レイチェルの耳朶を打った。急いで振り向いた先には、レイチェルの逃げ道を塞ぐようにマルセル伯爵が立っていた。彼はいつもの豪華な服ではなく、質素な制服を着ている。――どうやらクリスティーナの従者として紛れ込んでいたらしい。
「あらまあ……。お父さま、いつから従者の真似事を始めましたの?」
「ふざけたことを! 私を門前払いするから、こうするしかなかったんだ!」
ダミアンの計らいか、知らぬうちにマルセル伯爵は門前払いされていたらしい。怒った牛のようにのっしのっしとやってきたマルセル伯爵が、ガッとレイチェルの腕を掴む。
「痛いですわ。落ち着いてくださいまし」
「何が落ち着いてだ! 言え! お前の両親をどこに隠した!」
マルセル伯爵の顔は怒りのあまりドス黒く変色し、目はギョロギョロと血走り、まるで狂人のよう。
(油断しましたわ……! まさか変装してやってくるなんて)
マルセル伯爵の本気を舐めすぎていた。加えて、応じたのが新入りの小間使いというのも運が悪かった。なんとか彼を落ち着かせないと。レイチェルが必死に言葉を探す。
「それよりお父さま、最近わたくし国王陛下の顔の覚えもめでたいのですのよ。そろそろお父さまを官職に……むぐっ!」
「何がお父さまだ白々しい! 知っているんだぞ。両親だけでは飽き足らず、あの汚らしい騎士まで呼び寄せたそうだな!? どうせ俺はもう破滅の身。こうなったらお前だけでも道連れにしてやる!」
完全に逆上したマルセル伯爵は、なだめようとするレイチェルの口を塞ぐとそのまま彼女をどこかへ連れていこうとする。彼の力は信じられないほど強く、両足で踏ん張ろうとしても踏ん張りきれず、逆に膝をついたところをそのままズルズルと引きずられてしまう。
(なんて力ですの!)
「お父さまやめてくださいませ! これ以上レイチェルさまに乱暴をしないで!」
「うるさいっ! お前は一体誰の味方なんだ! つべこべ言っていないで手伝え!」
怒鳴られて、クリスティーナの肩がびくりと震えた。長年、父親に押さえ込まれながら生きていた娘だ。逆らえるはずもない。
そう思っていたのに、彼女は予想に反して、強い意志を宿した瞳で父親をにらみつけた。
「……いいえ。お父さまのやっていることは間違いです。もう、お父さまの言うことは聞きません。人を呼びますから!」
なんとそう言って、さっと身を翻したのだ。これに慌てたのはマルセル伯爵の方。このままではクリスティーナが助けを呼んできてしまう。今まで以上の力で、無理矢理レイチェルを連れていこうとする。
だが、それよりも早く複数の足音がしたかと思うと、騎士たちと共に、必死の形相をしたダミアンの姿が見えた。レイチェルの口は相変わらず塞がれたままだったが、彼の姿が見えたことで安心し、じわりと涙が目に浮かぶ。
「レイチェル!!!」
――それは、初めて聞くダミアンの叫びだった。同時に、彼が初めてレイチェルの名を呼んだ瞬間でもあった。
「き、き、き、貴様! 僕の妻に何をする! この者を捕らえよ! 彼女を救うんだ!」
どもりながらダミアンがばっと手を伸ばせば、騎士たちが素早くマルセル伯爵を取り囲む。
とたんに、これだけの凶行に及びながら何も武器を用意していなかったらしいマルセル伯爵がたじろいだ。その一瞬の隙に、レイチェルは自分の体をくるりと反転させ、伯爵の股間目掛けて思い切り蹴り上げた。
「そおいっ!!!」
――その日、離宮の庭園でドグッという鈍い音とともに、鶏が絞められた時のような、か細い悲鳴を聞いた者が何人もいたとか、いないとか。
◆
『本当に君はそれでいいのか? もっと重い刑に処すこともできるのに』
憤慨した顔でそう書き殴ったのはダミアンだ。そばでは書記官が、レイチェルの言葉を聞き逃すまいと緊張した顔で書記版を構えている。
「いいんですわ。大体その場で害するならともかく、武器もなしにあの場に乗り込んできてわたくしをさらおうなんて無謀の極み。そんなずさんな犯行を予防できなかったわたくしにも落ち度があります。――それにマルセル伯爵には、もうひと仕事していただかなければいけませんし」
マルセル伯爵に掴まれて痛めた腕をさすりながら、レイチェルが微笑む。
「わたくし、書類上ではまだ名前がクリスティーナですし、まだあなたの妻なんですの。これを“間違いだった”と教会に認めさせて訂正してもらうには、それはもうたくさんのお布施をしなければいけません。それこそ、伯爵家の金庫が全て空っぽになるくらいには」
何かを察したらしいダミアンが、何も言わずにじっとレイチェルを見る。
「それにね、昔お父さまにも約束しましたのよ。いつか閑職につけて差し上げると。だからそうね……とても小さな村の小さな役所で、人手が不足しているというお話を聞きましたの。屈強な村の皆さんとは顔馴染みなんですけれど、なんでも役人と言っても実際は牧場で豚さんのお世話をするのが主なお仕事なんですって。何かと豚が好きなお父さまには、ぴったりだと思わない?」
あらかじめ用意されたセリフのようにスラスラとそらんじれば、ついにダミアンが堪えきれず笑い出した。その声は快活そのもので、とてもどもりに悩まされている人の笑い声とは思えない。
散々笑った後で、ダミアンは笑いに震えながらペンを走らせた。
『わかった。では君の望む通りに進める。何か、お父さまに伝えておきたいことはある? それとも直接言いに行く?』
「そうですわね……。直接会うのはもうごめんですから……」
レイチェルはそばに立つ書記官を見る。彼は慌ててペンを構えた。
「ではこう伝えてくださる? 『いいか、決して逃げるでないぞ。もし逃げたら必ず探し出して、死んだ方がマシだと思う目に遭わせるからな』と」
初めて会った日に、レイチェルがマルセル伯爵から言われた言葉。それを一字一句違えず、そのまま突き返してやることにする。
「承知いたしました! こちら伝えさせていただきます!」
キビキビとした動きで書記官が出ていくと、部屋の中が急に静かになる。気まず気にもじもじし始めたダミアンに、レイチェルがイタズラっぽく微笑みかけた。
「……ダミアンさま、先程はかっこよかったですわよ」
『僕は何もしていない。騎士たちと君が自分で解決したんだ』
「ダミアンさまが来てくださったから、わたくしも勇気が持てましたの」
本当のことだ。駆けつけてくれたダミアンの顔を見た瞬間、もう何も怖くないと思った。
(わたくしには、ダミアンさまがついている)
誰かが自分の味方でいてくれている。そう思えることの、どれほど心強いことか。今度ダミアンにも教えてあげなくては、とレイチェルは密かに決めた。
「ね、ダミアンさま。あの時、わたくしの名前を呼んでくださったでしょう?」
声の響きに異変を感じたらしいダミアンが、警戒した目でこちらを見る。レイチェルの瞳には、イタズラを企む時特有の光がきらめいていた。
「お願い。もう一度だけ呼んでくださらない? 一回でいいの、お願いですわ」
上目遣いで見上げれば、ダミアンが観念したようにため息をつく。
それからレイチェルの前までやってくると、ダミアンはおもむろにその場に膝をついた。
「えっ?」
予想していなかった行動に、今度はレイチェルの顔に疑問が浮かぶ。さらにダミアンは片方の手を自分の胸に当て、もう片方の手でレイチェルの手を取ると、真っ直ぐ彼女の瞳を見つめた。
「レ、レ、レイ……レイチェル。あ、改めて、ぼ、ぼく、僕の、妻、に、なって、欲しい」
――それは、突然の求婚だった。
驚きすぎると、人間というのは頭の中が真っ白になってしまうらしい。レイチェルはしばらく返事ができなかった。やがて焦れたらしいダミアンが、こほんと咳払いをしてようやく、彼女は笑った。
「――わたくしでよければ、喜んで」
「ど、ど、ど、どうして、泣く」
「あらやだ、わたくし泣いていまして? きっと、嬉し涙というやつですわね」
ほろほろ、ほろほろと、温かな涙は止まることを知らない。次から次へと流れていく雫を、ダミアンのまだ丸みを帯びた指が丹念にすくい上げていく。
「き、き、きみは、ぼ、ぼ、僕の……」
何かを言葉で伝えようとしたらしいダミアンが、けれど小さくため息をついて手帳を引っ張り出す。
『君は僕の天使なんだ』
「あら、ダミアンさまが急に詩人になってしまわれましたわ」
『本当なんだ。君が僕を見つけてくれて、味方してくれたおかげで僕は救われた。それがどんなに素晴らしいことか、僕は伝えなければならない』
「それならぜひ、あなたのお口から聞きたいですわ」
レイチェルが言うと、ダミアンが不満げに下唇を突き出す。
『……いずれ、僕の口から伝えよう。でも、そんなに急がなくてもいいだろう?』
「ええ、それもそうですわね。だって――」
なぜならレイチェルたちは、これから死が二人をわかつまで、たくさんの時を一緒に過ごすことになるのだから――。
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最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
もし少しでも面白いと思っていただけましたら、ブクマや広告下の☆☆☆☆☆部分で評価してくださると、作者が泣いて喜びます。
◆以下は1/9追加の、ほのぼの番外編です。
「これは一体何なんですの?」
離宮にある中でも比較的小さな厨房で、レンガの壁や数多の調理器具に囲まれながらレイチェルは言った。フライパンに鎮座する、丸くて黒い物体を覗き込みながら。
隣ではしょんぼりと肩を落としたダミアンに、しょっぱい顔をした料理長。それにメイドたちが揃えたように困った顔でこちらを見ている。
「パ、パ、パンケーキを作ろうと思ったんだ……」
少しつっかえながらダミアンがぼそぼそと言う。最近の彼は専門療法の甲斐あって、レイチェル相手なら手帳なしでもなんとか喋れるようになっていた。
「パンケーキを?」
「ふ、普通のケーキよりは、か、簡単だと聞いて……」
ダミアンが委縮していると、料理人がおずおずと「妃殿下」と進み出る。
「恐れながら、ダミアン殿下は妃殿下に喜んでほしかったようで……。けれども殿下を厨房に立たせてしまうなど不敬の極み。わたくし、今日をもって職を辞させて頂きたく……!」
「ちょ、ちょっとまって! あなたが責任をとる必要なんてないわ。わたくしだって厨房に立つし、ダミアンだって料理を覚えるのはとてもいいことよ」
料理長が早まらないよう制してから、レイチェルはもう一度フライパンを覗き込んだ。ターナーでパンケーキにしてはやたら巨大な物体をつついてみると、ごろりと、巨大な炭にしか見えない物体が重たげに転がった。パンケーキなのに円盤ではなく、球体で形を維持しているあたり逆にすごいと感心してしまう。
「……こっちは残念だけどもうあきらめるしかなさそうですわね。もはや炭って感じだもの。捨ててしまってもよろしくて?」
確認すると、ダミアンがこくこくうなずく。使用人たちが急いで炭ボールを片付けているうちに、レイチェルは腕をまくりあげた。
「失敗は誰にでもありますわ。それよりダミアンさま、気を取り直して今度はわたくしと一緒に作りませんこと?」
にっこりと微笑むレイチェルに、ダミアンが目を丸くする。
「一緒に? で、でもそれじゃ、サプライズにならない……」
「あら。わたくしはもう十分いただきましてよ。炭化した丸いパンケーキなんて初めて見ましたもの」
「そ、そういう意味では」
ぬっと下唇を突き出したダミアンを見てレイチェルが笑う。不満がある時特有の癖は、まだまだ治りそうにないらしい。
「いいんですのよ。サプライズは気持ちが大事。それにわたくし、純粋にダミアンさまと一緒にお料理してみたいわ」
「君と一緒に?」
「ええ。それなら料理長の手も煩わせないし、何より楽しいじゃない。……だめかしら?」
言って、いたずらっぽく見上げる。とたんにダミアンがぐぅと言葉を詰まらせた。
「き、君はずるいなあ……。僕が断れないって、知ってるくせに」
ぷいと顔を逸らして答える彼に、レイチェルはうふふと笑った。それからうきうきと、二人分のエプロンを手にとる。一枚は自分に。もう一枚はダミアンに。
「では、わたくしはメレンゲを作りますわ。ダミアンさまを下地を作ってくださる? 混ぜすぎには気を付けてくださいましね。さらさらじゃなくて、ボテッとしてるぐらいがちょうどいいですわ」
卵に小麦粉、お砂糖、それに膨らし粉。
用意した材料の中から最初に卵をいくつか手に取ると、レイチェルはボウルの角でカシャカシャッと卵を割った。そのまま素早く黄身と白身をわけ、黄身の入ったボウルをダミアンに差し出す。
以前よりずっと男らしく角ばってきた手で、エプロンをつけたダミアンがせっせと泡だて器でかき混ぜた。その間に、レイチェルも手元のボウルに白身を入れる。
まずは手早くかき混ぜ、泡立ってきたところで一回目の砂糖を投入。それからすぐにシャカシャカと手を動かし、泡が細かくなったのを確認したら二回目の砂糖。やがて全体がとろりとクリーミーになってきたところで、最後の砂糖を入れる。
そうしているうちに、ツンと弾力のあるツノが立った淡雪のようなメレンゲが姿を現した。
「できたよ」
声に釣られてダミアンを見れば、彼の方も完成したらしい。あたたかなお日様を思わせる、まろやかな色の生地が程よい固さでまとまっていた。
「ばっちりですわね。じゃあわたくしのメレンゲと、ダミアンさまの生地を合体させましょう」
そう言うとレイチェルはへらでメレンゲをすくい、生地の中に落とし込んだ。それから優しくさっくりと全体を混ぜれば準備完了だ。
あらかじめ火であぶっておいたフライパンを一度、濡れ布巾の上におろす。ジュッ! という音とともに、蒸気がもわっと上がった。ダミアンが慌てて駆け寄ってくる。
「だ、大丈夫かい!? 火傷は!?」
「大丈夫ですわ。取っ手にも布巾を巻いてありますもの」
そうしてフライパンが程よい温度になったところで、再び火の上に戻してバターを落とす。じわじわと溶けたバターの香ばしい匂いが、あたりに漂ってくる。
「まずはわたくしが最初に作りますわ。ダミアンさまはよく見ていてくださいませ」
言いながら、レイチェルはおたまに生地をすくい上げた。隣ではダミアンが、塵の一つも見逃すまいと真剣な目で覗き込んでいる。
その様子にもう一度ふふっと笑ってから、レイチェルはとろぉりとクリーム色の生地を落とし込んでいった。丸い生地はフライパンの中でうっすら厚みを持ち、まるで満月のよう。あたためられた生地から、ふんわりと甘い匂いが立ち上る。
そのままダミアンが固唾を呑んで見守っていると、ごくごく弱火で膨らみ始めた生地に、ぷく、と泡が浮かんだ。かと思うと、ぷくぷくと、いくつもの泡が浮かんでは消えていく。
「泡が出てきたら、そろそろですわ。すぐにひっくり返したくなりますが、もうちょっとだけ辛抱です。もう少し、もう少しだけ焼けるまで……今ですわ!」
レイチェルはすばやくターナーを差し込んで、勢いよく生地をひっくり返した。ボテッという音とともに、片面が綺麗に焼けた小麦色のパンケーキが顔をのぞかせる。
「あとはもう片面も焼ければ完成ですわ。いい感じに厚みもでてきているでしょう?」
「すごくふわふわで、おいしそうだよ!」
ふわんと香る甘い匂いに、興奮したダミアンがごくりと唾を呑む。
「じゃあ次はダミアンさまの番ですわね」
ダミアンはすぐさまうなずいた。
念入りに観察したおかげか、彼は先ほどの失敗が嘘のように次々と綺麗なパンケーキを焼き上げていく。それから、どう? とばかりに瞳を輝かせてレイチェルを見た。
「まあ! 本当にお上手。さすがダミアンさまですわね」
両手を叩いて褒めれば、ダミアンがえっへんと胸を反らせる。
「それにしても、思ったよりたくさんできそうですわね。みなさんにも配りましょうか。そうだわ、クリスティーナたちも呼んでお茶会にしましょう」
戸籍上妹となったクリスティーナは、今はレイチェルの侍女として働いていた。ダミアンが大量に焼き上げたパンケーキがあれば、恋人の騎士や他の使用人たちの分も十分に足りるだろう。
レイチェルがクリスティーナを呼びに厨房から出ていこうとしたところで、後ろから手を掴まれた。そのまますっぽりと、ダミアンの腕の中に包まれてしまう。
「だめ、行かないで」
ぎゅっと、閉じ込めるようにレイチェルを抱きしめたダミアンが言う。
レイチェルは驚いて顔をあげた。以前より高い位置で、ダミアンと視線がぶつかる。
「まあ。背はこんなに大きくなりましたのに、まだまだ子供っぽいですわね? ダミアンさまは」
レイチェルが笑うと、ダミアンはヌッと下唇を突き出した。
「そ、そんなことはない。僕はもう大人だ」
「本当かしら? ――これでもそう言えて?」
レイチェルはダミアンの腕の中でくるりと振り向いた。それから彼の白い頬に手を添え、唇についばむようなキスをひとつ落とす。
「……ふふ。ほら、まだまだ子供ですわ。あっいけない。パンケーキが焦げますわ!」
するりと腕を潜り抜けて、レイチェルが慌ててフライパンに駆け寄る。
その後ろでは、顔をゆでだこのように真っ赤にしたダミアンが、カチンコチンに固まっていた。
「まだまだ、妃殿下には敵いそうにないですな」
顔をほころばせた料理長が、こっそりとダミアンに囁いた――。
<終>