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子守唄

作者: ろろ

作中に、蓮花茶というものが登場しますが、どうも文中で説明しているものと実体は違うようです。

適当な下調べですみません。

フィクションだと思って読んで頂けたらと思います。

 子守唄が聞こえた。

 遠いかすかな風の流れにまじり、草花の眠りを誘うような穏やかな歌である。海鳥の柔らかい羽毛のような、みどり児がまとう綿布にそよぐ起毛のような、そんな歌い方だとティエットは思う。

 街は午後のまどろみのうちにあった。朝方の喧騒も終わり、フオン市場は静かな落ち着きを取り戻している。籐カゴに積まれたとりどりの野菜や魚介、果物の向こうでたたずむ売り子たちの面差しにも、心なしか安堵の色が混じり始めているように見える。軒を連ねる露店のひとつに、籐カゴに積まれた獲物をうかがう猫を追い払おうと頑張っている売り子がいて、その姿が微笑ましかった。

 浅黒い肌をした気丈そうな少年――ティエットは、肩に乗せていた天秤棒を下ろし、両端に下げていた一対のカゴを見やった。カゴの口からは、やや強いピンク色の、大振りな花が溢れている。今朝方、村外れにある池から摘んできたばかりの蓮の花だった。この国では聖なる花とされており、そしてティエットの商売道具として、六人家族が糊口をしのぐ助けになっているこの花も、今日は売れ行きが芳しくなかったのだ。

 見上げると、コバルト色の空に一点、白く太陽が燃えている。風の加減のせいか今朝は涼しく感じたのだが、午後から刻々と気温が増しているようで、この分だとかなり暑くなるだろう。ティエットは半ズボンと茶色く汚れたシャツ一枚きりの装いだったが、蒸すようなこの国の気候では、油断しているとすぐに体から汗がなくなってしまう。スコールになれば暑さは和らぐが、そんなに都合よく雨が降ってくれるとも思えなかった。

 今日はこのまま商売を切り上げて帰ろうか――そう思いかけ、ティエットは首を振る。いくら何でも今日は稼ぎが少なすぎた。天秤棒を担いで売り歩くのが辛くても、路上に売り物を広げて商売するくらいのことはできるはずである。編笠をもってくればよかったな。そうティエットは思う。そうすりゃ、これくらいの暑さなんかへっちゃらなんだけど。

 ティエットは、パパイヤやライム、香菜などがうずたかく積まれた小店の前を通り過ぎ、蓮の花が溢れるカゴを並べて商売できるような、空いた一画がないかと視線をめぐらせた。そして、彼が今いる小路はぎっしりと露店で埋まっており、自分の滑りこむような隙間はないのだとすぐに悟った。他の小道も見てみようと、ティエットは店と店の隙間の路地に身をくぐらせた。

 そうして十歩ほど歩いたときだった。色糸で華やかな刺繍のされた布などを並べて売っている露店の奥のほう、白布を渡して日陰をつくっているその下に、みどり児を抱いた女の姿があった。

 細身の女だった。藍色の上着に質素な黒いズボンを合わせていて、竹で組まれた椅子に腰かけている。首から胸の下までゆったりと布をたらしており、その布で赤子を包んでいた。抱かれた赤子は眠っているようだ。女の唇から、さっきからずっと聞こえていた子守唄が吟じられていた。柔らかな唄だった。ティエットの知らない唄だ。あの唄を歌っていたのは、今目の前にいるこの女であったのだ。

 ふと、ティエットは立ち止まり、声をなくしたようにその場所に立ち尽くしてしまった。伏していた顔を上げた女と目が合って、どうしたの? と声をかけられるまで、ずっと茫然とたたずんでいた。

 ティエットには母親がいなかった。少年の母親は19歳で3人目の子供であるティエットを産み、21歳のときに病気で命を落とした。だからティエットには母親の記憶がない。ただ生前の彼女の写真を眺め、この人が自分の母親なのかと一人納得するしかなかった。そして今、自分の目の前にいる女は、写真のなかの母親の面影に、どことなく似ている気がしたのだった。

「……ねえ坊や。蓮の花なら、あたし買わないわよ。間に合っているもの」

 だしぬけに、赤子を抱いた女から投げられたのは、そんな声だった。

 それでティエットは、その女をまじまじと眺めた。若い女だ。長く結った髪を背中に垂らしている。多分、17、8歳だろう。女が結婚できるのは16歳からだから、まだ結婚して子供を産んだばかりのはずだ。ティエットは、眉をくもらせた。

「……坊やじゃないよ。もう12歳だ」

「12歳なら、まだ坊やじゃない」

 あっさりと返され、ティエットは絶句する。12歳だと、坊やなのだろうか? 自分ではもう大人の一歩手前くらいだと考えていたティエットは、思わぬ不意打ちに困惑してしまう。

「……あ、あの。でもな、俺、もう売り子をして小銭を稼いでいるんだ。坊やよりは、ちょっと大人になっているだろう?」

「あら。あたしだって12歳のときには果物を積んだ天秤棒を担いで歩きまわってたわ。そんなの普通でしょう?」

「……う、うぅ」

 ティエットは、よくわからない悔しさに襲われた。目の前にいるこの女に、自分が認められていないような気持ちがしたのだ。ティエットがそうしてへどもど狼狽すると、女はランの若葉のように瑞々しく笑った。

「あっははは。冗談よ。その歳で売り子をするのって、すごく偉いと思うわ。ほら、私たちって女はよく働くけど、男はわりと怠け者だったりするでしょ? あんたきっと良い旦那さんになるわね」

 状況が飲み込めず、ティエットは狐につままれたような顔をしていたが、やがて自分が女にからかわれていたのだと気付いた。鼻白む思いを顔に出すまいとする。

「別に、働きたくて働いてるんじゃないよ。ほんとうは俺だって遊びたいんだ。でも、俺、貧民地区の生まれだから」

「まあ、そうね。人生って選びたいように選べるものじゃないものね。あたし変なこと言ってしまったかしら。気を悪くしないで」

 ティエットは首を振った。そして、気なんて悪くしてないさ、と付け加えた。女はにこりとする。

 しかしそのとき、女が首から下げている暖色の柔らかな布のなかで、赤子がもぞもぞと身じろぎをした。か細い声で泣き声があがる。

「あら。あらあらあら、起こしちゃったみたいねえ。ごめんなさい、ホア。せっかく寝付いた所だったのにねえ」

 女が慌ててみどり児をあやすのを、ティエットはぼんやりと見守っていた。そして、しばらくして赤子が泣き止み、女の顔が安堵にゆるむのを見て、ティエットは訊いた。

「……子守唄は歌わないの?」

 唐突な問いに、女はきょとんとする。それから質問の意味を悟って、

「ああ、さっきの唄、聴いてたの? なんだか恥ずかしいわね。さっきは、たまたま唄っていただけよ」

「……唄、うまいんだね?」

「んん、そう? あたし以前、学校で唄をならっていたの。もう辞めちゃったけどね」

 言って女は、はにかんだ笑みを見せた。

「すごくうまいよ」

 ティエットは正直に言った。何というか、声の質そのものが違うのだと思った。他の人が同じように歌っても、多分、同じようには唄えない気がする。そういうのは、きっと生まれついてのものなのだ。

「古い民謡なのよ。もう一度、聴いてみたい?」

 ティエットは頷く。それで女は再び抑えた声で唄い始めた。遠いさざ波のような唄だった。



「これでおしまい。どうだった?」

 唄が終わってからも、ティエットは少しの間、心がどこかへ引き込まれてしまったみたいにぼんやりとしていた。言葉にできない懐かしい感覚が、胸のうちにひたひたと湧き出ているようだった。

「ねえっ!」

「うわぁっ!」

 女に迫られ、少年はようやく平常の心を取り戻した。びっくりして口をぱくぱくさせると、手のひらで髪をくしゃりと撫でられた。

「ど・う・だっ・た? 感想は?」

「……すごかった」

「なんだかイヤらしそうな感想ねえ。下ネタみたい」

 言ってから、女は赤子を起こさないように抑えた声で、くっくっと笑った。よく笑う女の人だ、とティエットは思う。人生を楽しんでいるように見える。

「もう行かなきゃ」

 ティエットはそう告げた。いくら何でも、いつまでもここで時間を潰しているわけには行かなかった。日は落ちるのを待ってはくれないし、何もしないままでは蓮の花も売れてはくれないのだ。そして、日銭を稼がなくてはティエット達の生活は苦しいままだった。いや、日銭を稼いでも、そうなのだ。

 ティエットは足元の天秤棒を肩へと担ぎ上げ、女に礼を言ってから、路地の出口を目指して歩きだした。ふと思い直して、棒の両端に下がったカゴの一方から蓮の花を一輪だけ抜き取り、女の手に握らせた。

「それ、唄を聴かせてくれたお礼。あんまり値は高くないけど、神聖な花だから。俺、礼ってこれくらいしか、できないから」

 意表を突かれたのだろう。女はしばらく手渡された蓮の花を、眸をしばたたかせながら見つめていたが、やがて再びくずれた笑顔に戻った。

「嬉しいわねえ。じゃ、ありがたく頂いておくわ。そうね、蓮花茶でもつくろうかしら。あんた蓮花茶って知ってる? あ、そうだ名前は?」

「ティエット。ライ・クワン・ティエットだよ」そして、かぶりを振って答える。「蓮花茶は、知らない。それってお茶なの?」

「そう。ティエットって言うの。強そうな名前じゃない。あたしはスアン。ホアン・ティー・スアンよ。でも、みんなはタン・テュウの奥さん、って呼ぶわ。……蓮花茶っていうのはね。お茶の葉に蓮の花を絡めて香りをつけたものをいうのよ。大人の楽しみね」

「……へえ」

 大人の楽しみ、という言葉が耳に残った。蓮花茶を知らないということは、やはり自分はまだ坊やなのだろうか。それを認めるのは厭だったが、やはり実際、自分は坊やなのだろう。世界はまだ知らない物事で溢れており、どこまでも果てなく広がっているのだ。

「もし、飲んでみたいのだったら、またここに来るといいわ。二、三日してからね。それならきっと、あんたに蓮花茶をご馳走できると思うから」

 スアンがそう言ったので、ティエットは弾む思いで頷いた。

「なら、また来るよ。三日後にここへ来る。もっぺん蓮の花を摘んでくるから、そのときにまた一輪スアンにあげる」

「馬鹿ねえ。そんなお礼しなくってもいいわよ」

 立ち去り際に、スアンは手のひら二枚分の大きさの端切れをティエットにもたせてくれた。紺の布地に白や黄色や、鮮やかな朱色の糸で巧みに刺繍がされている。以前、村の長が見せてくれた、小数民族のまとう民族衣装の色鮮やかな刺繍に似ていた。

「それ、蓮の花のお礼よ。どうせ余っちゃった生地だから、気にしなくていいわ。お母さんかお姉さんなんかがいるなら、あげれば喜ぶかもね」

「うん、ありがとう」

 手を振りながら、ティエットは路地を駆けていった。思いがけず、心躍るような楽しみができたのだ。新しい、みんなに誇れるような知り合いができただけでなく、宝石のような刺繍を施された端切れまで貰ってしまった。それはいつもの決まりきった毎日とは違って、ティエットの心を羽毛みたいに軽くするものだった。

 コバルトの空は色濃く澄み渡り、南のほうを飛翔する雷鳥が一羽よぎっていった。ティエットは貧民地区の片隅にたつ自分の家を思い浮かべる。草葺きの屋根、土塗りの壁、狭い庭と竹で組まれた生け垣、庭に植えられたナンヨウサクラの樹、しかしそのような貧しい我が家でさえ、今では帰宅するのが待ち遠しく思えるのだ。

 そうだ、村に帰ったら、バック爺さんに楽器を教えて貰おう。たしかあの爺さん、胡弓を弾くのが滅法うまかったはずだから。演奏を憶えて、スアンの子守唄に胡弓の調べを添えるのだ。それは素晴らしい思いつきのようにティエットには思えた。

 唐辛子や香草を売る露店から、香辛料のこうばしい匂いが漂ってきている。自分はこうやって少しずつ大人になっていくのだ。これから様々な人たちと出会い、様々な物事を知っていくのだ。それは胸躍り、体のすみずみまで希望で満たされていくような喜びだった。フオン市場の狭い小路を、少年は弾けるような笑みを顔にたたえて、天秤棒を揺らしながら駆けていく。

 

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