ドッペル
「おい、田中遅かったな」
作業着を着た中年男性が話かける。その声に気付いて男が顔をあげる。
「いや、この会社広くってさ。迷っちまったんだ」
男は帽子のつばをくいとあげる。
「まぁ、わかるけどな。ほらさっさと掃除に行くぞ」
田中と呼ばれた男はまだ若かった。
「はいよ。わかってらぁ。それにしても、何年か前はちいさな中小企業だったらしいじゃねぇか」
「そら、それはあれだよ。ある人物を雇って風向きが変わったんだってな」
「へぇ、よく知ってるねぇ」
「そりゃあ、ここいらのオフィス街の清掃員をなめちゃいかんよ。いろんな話を小耳に挟むんだよ。まぁ、ここだけの話だけどな」
「ところでその男ってのはどんな奴だい?」
「さぁな、そんなところまで知るかよ。まあ、なんでも警戒心の強いみたいで誰もそいつの顔を見たことがないようだけどな。ここだけの話、俺は知ってるぜ」
「すげぇや、おやっさん」
「黒い長髪の漆黒の目をしたえれぇ、べっぴんの兄ちゃんよ」
「へぇ……」
俺も知ってる。その言葉は誰にも聞こえないくらい消えいるような声だった。
そして、田中は薄く笑った。
「そんなことより田中、仕事を……。おい、あれ?」
そこに部下の姿はなかった。
「おやっさん。もうどこ行ってたんですか?」
「なんだぁ?」
遠くから見知った相手が走ってくる。
「もう、トイレから戻ったらいないとか酷いから」
それは田中だった。
「お前、今?」
「いま?なんすか?」
「………………いや、なんでもない。たまにあるだよな。この仕事やってると、変なものみるときがさ」
「なんの話スッか?」
「もういい。仕事するぞ」
そう言って、おやっさんは先を歩き出した。




