モラル
男は真剣なまなざしで話していた。
「君は今、自分のしたいようにすると、そう言ったね。でもね、それが許されないときもあることを、君は知るべきだね」
相手が何か言いかけたようだが、それを遮り、男はなおも言った。
「いいか、よく聞きなさい。君は一人で生きているわけではないだろう? それは認めるね。社会の中で、その恩恵を受けて生きているんだ。わかるだろう?」
相手は素直に認めたようだ。それを聞き、男は満足そうに頷いた。そして、少し声色を和らげ、
「社会の恩恵を受けて生きている以上、社会のルールも守らなくてはいけないんだよ」
男がこほんと咳払いをした。
「では聞くが、社会にルールがあるのはどうしてか、わかるかね?」
少し間を置き、
「それはね、社会にはいろんな人がいて、その多くの人がそれぞれに望みを持っているが、その望みを自分勝手に叶えようとすれば、社会が混乱するからさ。だからルールがあり、そこで暮らす者は、それを守らなくてはいけない」
男はまた、少し黙った。相手に考える時間を与えているようだった。
しばらく黙ってから、男はまた話し始めた。
「自分がこうしたいと思っても、それをしていいのかどうか、それを判断する力がまず必要だ。それが、分別というものだよ。これを備えた大人になることが、君には必要なんだ。わかるね」
いいか、わかったかな、と男が大声で言った。
しかしその男の声は、すぐに掻き消えた。電車内に、次の駅に到着するというアナウンスが流れたからだ。
男はそのアナウンスに、舌打ちをした。
そうして、スマホに忙しなく指を這わせ、それをポケットに入れると、周囲の者を押し退けて電車から降りていった。