第十五話~第十六話
第十五話 喜
夫が死んで初めての冬。肌を刺す冷たい空気が室内を制す夜、子供が始めて言葉を発した。
「パパ」
といったようにも聞こえた。でも、そんなことはありえない。この子の父親はもういない。
きっと
「はは」
と言ったのだ。きっとそうだ。そうに決まっている。素直に「はは」という言葉を喜ぼう。
そう思うと、冷たいはずの空気が突然熱を帯び、室内全体が春のようにほんわかとした暖かい空気に変化するのが不思議。
幸せで幸せでどうしようもない生活。夫の生命保険であと何年かはこうして二人きりで暮らせる。そのあとは、看護婦の仕事に戻ろう。
子供と少しはなれることになるけれど、仕方がない。
子供の生活を考えなくてはいけない。私は夫とは違う。ただ優しいだけじゃない。子供を養う強さもきちんと持っている。
第十六話 成長
子供は育つ。
みるみる成長し、あっという間に大人へなってゆく。
幼稚園、小学校、中学校。子の成長とともに、どんどん一緒に過ごす時間が減ってゆく。
そして子供の心も私から離れ、友達や女に移っていく。
でもそれでいい。この子は私のものに違いない。子供が選ぶこと、選ぶ道は全て正しい。私はそれを受け入れよう。子の選択を素直に受け入れよう。友達も女も、この子が選ぶのならばそれは全て正しいこと。私が口を出すことではない。
心が私から離れなければそれでいい。
そして、息子は結婚し、そして私の元から女の元へと去っていった。
悲しいけれど、息子の選んだ道。今は分かれても、いつか私の元へと帰ってくる。きっと。
子供のいない家は生気がすっかり抜け落ち、空気だけが充満する閑散とした空間になりはてた。それは私の心と一緒。
もしかして、間違いだったのだろうか?
子供の選択が正しいと思うのは。
私はすっかり幸せではなくなってしまった。寂しさが私の心に忍び込み、子供を私の元から連れ去った女に恨みがましい気持ちがわき上がってきた。
いっそのこと、女を。
いけない思いが私の心にわき上がる。
「母さん、僕に子供ができた」
うれしそうに息子は言った。
私の子供に子ができた。そして妻と子を連れ、この家に帰ってきた。私の元へと帰ってきたのだ。
何年も妊娠しなかった嫁がようやく孕み、そして出産したのだ。
息子のうれしそうな顔。
この顔を見ると幸せを感じる。
見つめれば、何年か離れて暮らすうちに顔に小じわができている。その小じわが微笑むことで余計に目立っている。
それすらが愛おしく感じられる。苦労したのかと問いたくなる。
しかし、それを問うても優しいこの子は「なにもない」と答えるのがわかっている。だから、顔を見つめるだけで何も聞かない。
心が通じているから、それでいい。
嫁の出産の時の苦痛を乗せた息子の顔を思い出す。
あの時、無事に子供が生まれていなかったら、この子は今頃どんな苦しみの中にいたのだろう。ついそんなことを考えてしまう。
少し、子供のことを気にかけすぎると自分でも思う。
でもそれが親心なのだろうとも思う。なにしろとてもとても大事な私の子供なのだから。