第三話~第五話
第三話 浮上
冬が終わりを告げる頃現れる、春を感じさせる陽炎のように薄い日の光、そういうイメージ。その光の下に私は立っている。のんびりとした空気。何もしなくても良い時間。
母親の胸に抱かれているような安心感。子供のころはずっとこういう時間をすごしていた気がする。
こんなときをすごすのは何年ぶりだろう。就職してからずっと、こんなにも穏やかで心落ち着く時間をすごしたことなどなかった。
さわさわと沢からの風が髪を払い、冬の未練のような低温の匂いを鼻腔に運んできていた。
私はその風に誘われて沢へと歩を進めた。
透明な青の深みが広がっている。淵だ。
「子供のころ、ここで泳いだなあ」突然そんなことが思い出されてきた。
と、その時。
ぷかり。
水面から浮き上がるものがあった。
肉色の柔らかそうな肌の赤子。
じっと見つめていると赤子は私の方をきろりと振り向いた。
大きな大きなひとつの眼が私を見つめた。
何の感情もこもらない目。虚無しか感じ取れない目。
「この子、私を見たわ」
不意に言葉が口をついた。
「もしかして、私の子?」
「いいえ、そんなことない・・・私、まだ子供産んでないもの。これから産むんだもの」
赤子は水面を器用に動き回る。手と足をばたばた動かし、背中の筋を使い、まるで地面の上にいるかのごとく、這うでもなく転がるでもなく、じたばたとあがくように動き回る。
とても苦しそうに見えるが、それでも赤子の顔は喜びを顔いっぱいに表現している。大きな一つ目を見開いて。
第四話 不安
「妻は大丈夫でしょうか?子供は無事に生まれるんでしょうか。」
薄暗い照明の下でも誰が見ても優しそうな顔立ちとわかる男である。眼の下に隈ができ、頬もこけている。不安と緊張に、血色の悪い唇が揺れている。
声をかけられた看護婦はちらりと男を振り向き、眉を一瞬しかめ何も言わず足早に立ち去り、暗い光の漏れる扉の奥へと消え去った。
その態度が男をますます不安にさせる。掛けていた椅子から立ち上がり看護婦を追おうとする男を彼の母はしっかりと肩を押さえ動きを止めた。
漆黒よりも暗い夜。体重に倍する重さの不安が腹にたまる夜。
男と母はその夜を過ごす。
第五話 瞳
「大きな目・・・その目で何を見るの?」
目の前には水面でもがく赤子。
白いワンピースの私。手を伸ばせば拾い上げられる距離。
大きな目は何かを訴えかけるでもなく感情を込めているわけでもなく、ただ見開かれたままである。
「私に拾い上げて欲しいの?」
目は何も答えない。変わりに歪にねじれた口がもごもごと何か言いたげに動いただけである。指が水面に触れると波紋が生まれ静かにゆっくりと川面全体に広がってゆく。
何の音もしない。指が水に触れた音だけが響く。
指先は人の体温ほどの温かさの水面に沈み込み、水面はとてもお気に入りのワンピースの裾をぬらす。でも、ワンピースよりも今はこの子が大事。
私はびちょびちょに腕をぬらしながら、赤子の背をしっかりと抱え込んだ。その背中はまるで感情を体いっぱいに表現するようにプルプルと振るえ、水面から開放された手足は空を掴み宙を蹴り、口元はほころんだ。そして大きな目だけが何の感情もなく見開かれていた。
「可愛い子」
柔らかな胸の肉に赤子は抱かれた。
「みぎゃあ」
赤子が啼いた。