第二話 タエコ
タエコの体は昨日の逢瀬の快楽に未だ火照っていた。気を抜くと、男の舌と指が体を這い回る。男と次に会えるのは、快楽に浸れるのは、しばらく先の事。それまでに何日も何日も勤務しなければならない。嫌いな日々。
厭な厭な日々。
透明な青色の月が出ていた。満月までもう少し。
木枯らしが吹き始め、紅葉の残り香が舞い散り、寒気が肌を刺し始めた頃の事。
風はピシピシと窓ガラスを鳴かせ、夜の闇の中に冷たい静寂が染み渡っていた。
経験から言えば、こんな夜は大抵厭な事が起こる。そしてやはり厭なことは起きたのだ。
いつものことだが、ゼリーのような固体とも液体とも言い切れない濃密な空気に遮られ、タエコの腕は思うように動かせなかった。
一センチ動かすのも大変な労苦だ。それでも、与えられた勤めをなんとしても果たさねばならない。
あれが、声をあげる前に。
あれが目覚める前に。
ずぶずぶと音を立て、ゼリーにスプーンを突き刺すようにむりやりに腕を前に押し出した。指一本一本までまとわりつくゼリーを拭いもせず、タエコは彼の柔らかな肌に指を触れた。タエコと同じ温度がそこにあった。
この瞬間は、この直後の行動に思いを馳せいつでも緊張する。下半身に不快な尿意がこみ上げる。
タエコは大きく息を吸い、そして、ゆっくりと指先に力を込めた。
その時、タエコの指と同じ太さ、長さの生き物が手の甲をかすかに撫でた。それは、男に秘部を愛撫されるよりも遥かに大きな快楽を与える柔らかさだった。
その快感に、込めていた指の力が緩み触れ合っていた肌が一瞬離れた。
その柔らかいものの不自然な脹らみや歪みのある頭部、その中央、大きな大きな瞳が、「きろり」とタエコの顔を見つめた.。
それの視線はタエコの眼球をじっと捕らえ、そしてまたタエコも大きな瞳を見つめていた。
なんの感情もこもらない眼。怒りも悲しみも喜びも何もない眼。
初めて世界を見たはずなのに、世界の全てを知って、そしてニヒリズムに陥った眼。
およそ、赤子の眼ではない。
再び指に力を込め鼻と口をふさいだ。指の下で、何か言いたげに喉と口がわずかに振動した。
厭な感触。
タエコは男のあれを握ったときの感触を無理やりに思い出す。これは男のあれ。そっと力を込めてぎゅっと握れば、精のほとばしりを無理やり押さえつけることができる。
この作業はそれと同じなのだ。精の代わりに命のほとばしりを押さえつけるだけなのだ。
そしてついに柔らかいものはこの世に産声をあげる前に彼岸へと旅立った。
タエコは、もはや物と化した赤子の顔の中央にたった一つだけ大きく見開かれた瞳に魅入られていた。その瞳には命を奪ったタエコに対して怒りも憎しみもこもっていなかった。
虚無。
それだけがあった。
少なくともタエコはそう思いたかった。そして赤子の瞳から眼をそらし、男のことを思い出し、逢瀬の快楽を反芻することに集中するのだ。
手術が全て終わる頃にはタエコの下着は湿っていた。それは快楽の反芻によるものか、それとも尿なのか、それともあれに与えられた快楽からなのか、タエコにはわからなかった。
医師が患者に死産であったと説明している頃。
何度手を洗っても、柔らかい感触は指から抜け落ちない。
それは、いつものこと。
タエコは思う。あんなことを繰り返しいて、このまま結婚していいのか、と。
子供をつくっていいのか、と。
あれは仕事。助産婦としての仕事。先輩の助産婦も医者も言う。
「こういう子は長生きできない。生かせても、ほんの数日。初めから生きて産まれなかったことにすれば、家族の悲しみも負担も少ない。だから」
でも、人殺し。
指から柔らかいものの感触が抜けるまで何日も何日もタエコは悩み続ける。
そしてその感触を忘れたとき、タエコは男に結婚の意思を告げた。