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彼岸より  作者: 雪風摩耶
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第十七話~第十九話

第十七話 思考


 昼下がり。息子は仕事に出かけ、家に残るのは三人だけ。

窓を透かして入ってくる柔らかな光の下、嫁が子供を抱き、幸せそうな笑顔を浮かべている。

 私にもこんな時期があった。だから、今嫁がどんな気持ちでいるのか手に取るようにわかる。子供を食べてしまいたいくらいに可愛く感じるだけでなく、本当に食べてしまうことを考えてしまうほど愛おしいのだ。

それにしても、自分の孫なのに、息子ほどは愛情も感じなければ、可愛くも感じないのはなぜだろう。

おなかを痛めていないからか。

 母親の胸の中で赤子は、ああ、ああ、と鳴き声をあげている。

これが自分の子であれば、堪らない響きだったのに。

あと一年ほどもたてば、言葉にならない鳴き声から、少しずつ言葉を喋るようになるだろう。

最初の言葉は何かしら?


第十八話 言葉


 息子が仕事でいない時の事。いつものように柔らかい光に包まれたのんびりとした昼下がり。

赤子の最初の言葉は「ママ」だった。

「お母さん、今聞きました? ママってこの子が」

嫁の顔はうれしさというよりも感動を浮かべていた。目に涙さえ浮かべている。

「そお? 私には、ああ、ああ、としか聞こえなかったけど」

少し意地悪をいってみる。嫁が喜びいっぱいの顔から一転して、眉毛をしかめ不快感をあらわにする。

「嘘よ。確かにママって聞こえたわね」

「そうですよねえ、この子確かにママっていいましたよねえ」

再び一転して明るい声を張り上げる嫁。

「単純な娘」

そう思う。

「でも、いいの? 息子はなんていうかしら?

男の立場としては、パパって最初に言って欲しいんじゃないかしら?」

嫁はコロコロと表情を変える。今度は暗さを表情に浮かべため息までつき始める。

「はあ、そうなんですよねえ。あの人、子供が喋るの楽しみにしていたから残念がるでしょうねえ」

「夫のことを考えるのも妻の務めよ。あの子が喜ぶ顔を思い浮かべてごらんなさい。どんなに喜ぶか」

「そうですよねえ、旦那を喜ばせるのって大事ですよねえ」

甲高い声を張り上げぎみにして、にこにこと笑顔を浮かべる。

「本当に単純な娘。息子が喜んでうれしいのは、あんたより私」

言葉にはせず、表情にも見せず、そういう言葉を吐いたが、嫁は少しも気づかない。

「パパって言ったことにします」

呑気な言葉を吐いている。

 初めての言葉は「パパ」

息子はやはり喜んだ。これ以上ないほどに喜んだ。長い間暮らしてきて、初めてみる喜び方だった。息子のことは全て知っているつもりだったけれど、息子がこんな顔ができるということは初めて知った。

少し寂しく感じた。

 日を追うごとに赤子は言葉を吐く回数を増やしている。

ああ、ああ、という生きている証でしかない声に、時折ぱぱ、ままとはっきり聞き取れる言葉が混ざり、そしてただの命の証を圧倒しはじめている。

 赤子の言葉が家に漏れるたびに、息子や嫁の言葉の端々から、動きの端々から、「幸福」という春の日差しの香りににた暖かくて優しい軽やかな空気が流れ出してくる。

「満ちている」

息子の心は今幸せに満ちている。おそらくは今までの人生の中で一番、心は幸せで満たされている。

私が育ててきた間、息子はこんなにも幸せを感じてくれたことはあるだろうか?

私と一緒にいて、深い安心感はあったろう。愛情も感じていたろう。でも幸福感というのは、あったのだろうか?

もしかして、私は赤子に嫉妬しているのだろうか?

息子が女に盗られたときも、こんな気持ちにはならなかった。

恨みがましい気持ちにのもなったし、ここまでの嫉妬の気持ちはわき上がらなかった。

心は通じていると信じられたから。

でも今は違う。不安が押し寄せている。息子の心が完全に赤子に持って行かれ、二度と私の元へ帰ってこないのではないか? 

そんな不安が私の心に満ちてきはじめている。


第十九話 心


 ねたみ、恨み、嫉妬、そういう感情が私の心の中に渦巻いている。

時には嵐の時の海のような暗黒色と濃灰色の入り交じった雲のような気持ちにもなり、時には黒い赤色の液体の中に身を沈めたような気持ちにもなる。

一体どうしたらこの感情を抑えられるのだろう?

いや、もしかしたら押さえる必要などないのではないか?

あの時のように。夫の命が消え去ったときのように。

いけない、こんな事を考えてはいけない。

赤子が死ねば、息子は悲しむ。きっと悲しむ。そんなことは許せない。息子が悲しみに暮れる顔など見たくない。

私は死ぬまで息子の悲しむ顔など見たくはないのだ。

死ぬまで息子を守り、息子に幸せな笑顔を作り続けさせるのだ。

でも、息子は私のこんな気持ちをわかってくれているのだろうか?本当は何もわかっていないのではないだろうか?

私が息子を愛しているほどに、息子は私のことを愛していないのではないだろうか? 私より赤子の方がずっと大事だと思っているのではないだろうか?

赤子が死ぬのと、私が死ぬのと、息子は一体どちらを悲しむだろうか? 

不安になる。

いっそ、試してみようか?

そんな思いも私の心にわき上がる。

でもそんなことをしたら、息子はきっと悲しむ。

私の心は最近ずっと堂々巡り。


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