1章99話 許されざる者4 生きるための約束
その時ふと、空気が動く気配がした。
ふわりと優しい風が、ラスティグの身体を撫でる。
そして肩に温もりを感じた。
その温かさに身体を強張らせると、可笑しそうに笑うティアンナの声が聞こえた。
「……顔を上げて。貴方は立派な騎士だ。ノルアード殿下を守るための」
彼女の優しい声音に、その言葉に、心が震えた。
なぜ彼女はこんなにも優しい声で、温かい言葉をかけてくれるのだろう。
────わからない。これは都合のいい幻なのかもしれない────
ラスティグは顔を上げなかった。
それでもティアンナは、彼に向かって声をかけた。
「今、私はこうして生きている。貴方の罪を私は知らない……それに、もし私が同じ立場だったら……同じことをしたかもしれない」
彼女の言葉に慰められていく。
だがそれを許してはならないと、唇を強く噛んだ。
ティアンナは、その想いに気が付いているかのように、次の言葉をラスティグに贈る。
「自分を許してあげて……お願いだ、ラスティグ……自分で自分を罰するのは、もうやめるんだ」
彼女の言葉が、深く、心に突き刺さった。
それは罵倒されるよりもずっと、彼自身の深い闇を暴く言葉だった。
途端に押さえつけていた感情が溢れだした。
自らの罪を洗い流そうとするように、涙となって流れ落ちていく。
そんなラスティグに、ティアンナは言葉を続ける。
「私も貴方に教えられた。自分を許すことを……だからこうしてここに来た」
涙を流し、嗚咽を漏らすラスティグの背を優しく撫でる。
その手から、深い愛情が、温もりと共に伝わってきた。
「私は貴方に生きていてほしい。他のすべてのことは関係ない」
闇に閉ざされた世界に、温かな光が灯る。
その光に促されて、彼は顔を上げた。
「私が貴方にそう望むのだ」
目と目が合う。
涙の向こうに見える美しい紫の瞳には、彼女の強い想いがあった。
自分を求めてくれる人がいる。
生きていていいのだと、生きていてほしいのだと。
ただそれだけで、彼の心は救われた。
誰にも望まれていないと思っていた。
凍り付いていた少年の心は、彼女の想いに触れて、優しく、溶けていった。
「ティ……アンナ……」
その名を呼びながら、美しいその人に向かって、手を伸ばした。
笑顔と共に優しく握り返す手が、
──そこで彼を待っていてくれた。
「ティアンナ……っ」
その温もりを掴み取り、両手でしっかりと握りしめた。
────温かい。
────心が温かくなっていく。
────やっと……求めていたものを、手に入れた気がした────
「ラスティグ……」
ティアンナの手を、自分の名を呼ぶその声ごと握りしめ、ラスティグは泣きながら何度も頷いた。
そして彼女に頭をもたれかけるようにして、その手の上に大粒の涙を流した。
彼女の心に触れ、彼女の温かさに甘えた。
穏やかで、優しい時が流れていた。
二人の間を隔てる物は、もはや何もなかった。
ラスティグは心行くまで涙を流し続け、ティアンナはそれを見守った。
それからどれだけの時が過ぎただろう。
ラスティグはようやく感情の波が収まると、手を繋いだまま、ティアンナに向き合った。赤く泣きはらした顔で、彼女を真剣に見つめる。
「ティアンナ……もし、私が……」
しかし、そこまで口にして、ラスティグはその続きを言葉にすることができなかった。
────出来ない約束をしてはいけない。
この命が助かる保証などどこにもないのだから────
そして彼女に重荷を背負わせたくはなかった。
「大丈夫……ラスティグ。必ず助けてみせる」
ラスティグの気持ちを掬いとって、ティアンナは彼を助けることを約束した。
強い眼差しが、彼に向けて注がれる。
ラスティグは、自身の情けなさと、彼女の強く美しい心に、泣き笑いのような表情しかできなかった。
ティアンナはクスリとそれに微笑むと、彼の頬に手を伸ばし、優しく触れた。
少し硬くなったその指先が、ぎこちなく彼の涙を拭う。
────そして顔を近づけ、優しい口づけをひとつ
……彼の頬へ落とした────
眩暈のするような甘い香りが、目の前で弾ける。
驚きに目を見開くと、彼女は恥ずかしさを誤魔化すため、顔を背けてしまった。
美しい紫色の眼が、可愛らしく宙を彷徨っている。
「そ、それに……私たちの真剣勝負がまだ終わっていないだろう?」
彼女は言い訳をするようにそう言った。
「あの時、私は本気じゃなかったから、あの勝負は無効だ。次は勝ってみせる。……絶対にだ」
騎士アトレーユとしての言葉を口にすると、彼女は慌てたように繋いでいた手を離した。
少し残念に思ったが、彼女の薔薇色に染まった頬が、とても美しい。
強がりの中にいる本当の彼女はとても純粋だ。
──彼女の心を手に入れたい。
──彼女と共に生きていきたい。
そんな強い願いが、ラスティグの中に生まれた。
その願いと共に、彼女の言葉に耳を傾ける。
「必ず、もう一度、私と勝負をしよう。約束だ。それまでに死んだら許さないからな!」
彼の未来を信じている強い言葉で、一方的に約束の言葉を言い放つ。
そんな強がりすらも、今のラスティグには、とても眩しく見えた。
ティアンナは真っ赤な顔を隠すように後ろを向き、そして一気に駆け出した。
美しい銀髪が翻り、暗闇を照らす道標のように輝いた。
ラスティグは、その後ろ姿を目を逸らさずに見つめ、口づけをされた頬に手を触れる。
そこに残る彼女の温もりと、優しさに、自然と笑みが零れた。
そして、彼女の言葉に答えを返す。
「あぁ……そうだな、アトレーユ……きっと、約束を果たそう」
その呟きは、彼女には聞こえていないだろうが、それで十分だった。
彼女との約束がきっと導いてくれる。
もはや闇に沈み、死を望んでいた男は、そこにはいなかった。
光に手を伸ばし、生きる、と強く心を決めた男がいた。




