1章72話 真紅の夜7 崩れ落ちた心の仮面
アトレーユ、ラスティグ、ティアンナの3人は、ゆっくりと護衛達のいるところへ向けて再び歩きだした。お互いが無事であったことに安堵して、その表情は晴れやかなものだった。
しかしティアンナの胸の傷は、今回無理をしたことで再び開いてしまったようだ。濡れた服に血がにじみ出している。
「──っ……」
「ティアンナ、痛むの?」
王女が心配そうにティアンナの顔を覗き込んだ。
その顔は血の気が引いて真っ白だった。
「大丈夫です……ただ少し……足に……力が……」
そういうとティアンナは足元から崩れ落ち、そのまま意識を失った。
地面に倒れる寸前でラスティグがティアンナを支える。
「血を失いすぎたな……すぐに医者を!」
ラスティグはティアンナを腕に抱きかかえると、一気に駆けだした。そしてあっという間に皆のいる場所へたどり着くと、彼女の手当てをさせる為に人を呼んだ。
そこには他にも逃げ延びたもの達が数多く休んでいた。周囲は安全の為に騎士団の者達がしっかりと固めている。
そんな中、睨むような鋭い目でラスティグを迎えたのは、ノルアードだった。周囲の者は皆忙しく、彼らの異様な様子に気が付くものはいない。
「ラスティグ……」
「……ノルアード」
二人の兄弟の視線は鋭く交差した。まるであの日のように強く目を離さない。しかしあの時とは決定的に違う。
彼らの心は、違う方向を向いていて通じ合ってはいなかった。
「……なぜだ?」
低く地を這うような声でノルアードが兄を責めた。
「…………」
その問いにラスティグは、返す言葉が見つからなかった。すでにティアンナの存在はノルアードの存在と同じくらい大きなものとなっている。
もはやラスティグは自分自身の心に嘘をつき続けることができなくなっていた。
「この人のことはいいんだ……わかってくれ……ノルアード」
ティアンナを抱く手に力がこもる。もうその手は震えない。
そこにあるのは彼の確かな決意だった。
「……まさかお前にまで裏切られるとはな……」
自嘲の笑みを口もとからこぼすと、ノルアードはそのまま背を向けてその場を離れようとした。
「待て!そうじゃない!この人は……!」
──ドオォォンンッ──
その時、大きな爆発音が離宮の方で聞こえた。
「!!?」
彼らが振り返ると、そこには土煙と共に崩れる城の姿があった。まだその近くには、逃げ遅れたもの達を救助するために多くの人間が残っている。
「団長!大変です!」
傷だらけの兵士が慌てた様子で離宮の方から走ってくる。
「どうしたっ!?」
その兵士は離宮の方を指さして困惑しながらも、なんとか言葉を絞り出して叫んだ。
「エ、エドワード王子がっ……!」
「ラスティグ様!ティアンナは私共が見ております。どうか行って差し上げてください!」
少し遅れてやってきたキャルメ王女が、ラスティグに真剣な眼差しを向けてそう提案してきた。その言葉にラスティグは頷くと、ティアンナをゆっくりとその場におろした。
「……頼みます」
そういってラスティグはティアンナの姿をもう一度目に焼き付けてから、踵をかえした。呼びに来た兵士とともに、再び炎の上がる離宮へと走っていく。
「ティアンナ……?あなた方は一体……」
ノルアードはキャルメ王女と、彼女が腕に抱く騎士アトレーユを交互にみて、その疑問を口にした。
王女は騎士を「ティアンナ」と呼んだ、それはどういうことなのか。
王女は涙が浮かぶ目でノルアードを見ると、ふわりと優しく微笑んだ。
「私の大切な従妹ですわ。友であり、姉であり、妹であり、大切な私の騎士……彼女の本当の名はティアンナ・トレーユ・ポワーグシャー……」
煤で汚れた指先で、濡れて張り付いたティアンナの銀髪を整えるように梳く。まるで我が子を慈しむようなその姿は、とても美しく慈愛に満ちていた。
「……ではその騎士は……あなたの……」
ノルアードは頭が真っ白になって、続く言葉を失った。
美貌の銀髪の騎士は、王女の恋人ではなかった。
ましてや男ですらなかった。
二人がお互いに想い合い支え合っていたのは、自分が思っていたような理由ではない。彼女達は健気にお互いを守っていたのだ。
自分はなんという大きな間違いを犯したのか。
そしてその過ちによって兄をどれだけ深く苦しめ傷つけていただろう。
ようやくその事に気が付いて、彼は声にならない叫びを漏らした。
「……あ……あぁ……」
ノルアードは頭を強く殴られたかのような錯覚を覚え、足に力が入らずよろめいた。ジクジクと深い傷が痛むように後悔の念が生まれてくる。初めて感じるその感覚にどんどん気分が悪くなる。
まるで本当に自分がどす黒く腐っていくような感じがした。胸を強く抑えながら、顔を醜く歪める。
その時頭の中で考えていたのは、兄ラスティグのことだ。彼が自分を裏切った理由にやっと合点がいった。いつもアトレーユを気にかけていたのも、無意識のうちに気づいていたからかもしれない。
──彼女に惹かれていたのだ。
「ノルアード様!?大丈夫ですか?」
王女の慈愛に満ちた蒼い瞳が心配そうにこちらへ向けられる。清らかな瞳が、醜く腐った自分の姿を映している。
それは美しい蒼だった。あの小さな花のような。
自分はあの花のように美しい瞳を、苦しめて、歪めて、その光を奪うところだったのだ。触れればきっと穢して、踏みにじってしまうだろう。この美しい花に、自分のようなものが触れてはいけないのだ。
ノルアードはキャルメの瞳を見つめながら、切ない思いに心が囚われていった。
自分がずっと望んでいたものは、彼女のような存在だったのだ。その深い愛情を狂おしいほどに切望し、追い求め、そして手に入れられずに絶望した。それでもなお手に入れたいと思ったもの。
だがもうそれを手に入れるには、遅すぎた。いや、出会う前からもう手遅れだったかもしれない。自分は穢れきっているのだから。
傷ついた少年の心が悲鳴を上げる。ジクジクとした痛みは、次第に深く鋭くなっていく。そしてそこから膿んで腐っていくのだ。
醜い自分を見られるのがいたたまれなくなって、王女から視線を逸らした。そしてそれを隠すように、にこやかないつもの仮面をかぶる。必死で自分の中にある矛盾した感情と後悔の渦を抑え込もうとした。果たして上手くできているだろうか。
だが表情だけをいくら取り繕っても、心の仮面はすでに崩れ落ちてしまっていて、もはや被ることはできない。彼女の前では自分の感情はまるで荒れ狂う嵐のようになってしまうのだ。それに抗う術はない。
「いえ……なんでもありません。大丈夫です……さぁ、騎士殿を運びましょう」
必死で明るい声を上げてなんでもないように振舞う。今は自分の事よりも、この傷ついたティアンナという女性騎士の事が先決だ。すぐに彼女を野営のテントへと移すように手配した。
護衛達と共に彼女の身体を抱えて、離宮の外にあるロヴァンス軍の野営地を目指す。初めて触れたその騎士の身体は、ノルアードにはとても華奢で、儚く思えた。そしてそれを見つめる王女も、今にも自分の前から消えてしまうのではと思えるくらい、その存在を遠く感じた。
犯した罪が彼を責め立てていた。
ノルアードは黙ってその罪を噛み締め、その苦しみに耐え続けた。野営地まではまだ距離がある。彼等は静かに、周囲を警戒しながら移動した。燃え盛る城とは対照的に、あたりは深い闇に包まれている。
そんな中、ノルアードは一度だけ離宮を振り返った。縋るような想いで見つめた城は未だ激しく燃えている。
それはまるで悪夢のようだった。
その瞳に紅蓮の炎と漆黒の闇を映しながら、ノルアードはただひたすらに兄の無事を祈った──




