1章71話 真紅の夜6 心の棘
「アトレーユ達は!?まだ見つからないの!?」
そう叫んだのは離宮から助け出されたキャルメ王女であった。いまだ姿を見せないアトレーユ達を心配して、いまにも飛び出しそうな彼女を周りの護衛達が必死で止めている。
すでに離宮の一部は火災によって崩れ落ちていた。美しい蔦薔薇の咲き誇っていた壁は、禍々しい黒と赤で埋め尽くされている。
「……アトレーユ……」
王女は煤と涙で汚れてしまった顔を歪めながら、離宮の様子を呆然と眺めていた。
「キャルメ様……ご心配には及びません。きっとラスティグがアトレーユ殿を連れて戻りましょう」
そういってキャルメ王女の横に立ちその身体を支えたのはノルアード王子だ。
彼は離宮での騒ぎが起こるとすぐに、キャルメ王女の元へと参じ、その身の安全を第一に考えて行動していた。そして彼等と共に城を抜け出してきたのである。
ノルアードは内心、ラスティグがアトレーユの元へと走ったことを、良くは思っていなかった。
彼は兄であるラスティグが、自分ではなくアトレーユを選んだことに対して、憤りの感情が芽生えるのを抑えることができないでいた。
(王女を本当の意味で手に入れるためには、あの者は邪魔になる。私たちの道を邪魔する者は排除しなければならない)
ノルアードは常に冷徹に自分自身を律してきたつもりだ。そして自分がしたことを、決して後悔しないと自らに誓っていた。それは自分の為に手を汚す兄の為でもあった。
彼は兄であるラスティグの犠牲を、憂うことをしないと誓ったのだ。
彼ら兄弟の絆は、他の誰にも理解することはできない。彼ら二人だけがお互いの信じるものの為に戦っていた。
だがそんな彼らの前に現れたのが、キャルメ王女と騎士アトレーユだ。
再びノルアードはキャルメ王女をその眼に映した。離宮にいるであろう想い人を、泣きはらした顔で心配そうに見つめている。
ノルアードもまた離宮に視線を移した。建物はどす黒い煙をもうもうと上げ続けている。目を背けたくなるような惨状がそこには広がっていた。
果たしてラスティグは無事であろうか?
ノルアードの胸に、一抹の不安がよぎる。
今はもうたった一人になってしまった家族と呼べる者。
彼の想いを唯一理解する者。
苦い感情が心の中に広がっていく。
その時、自分でも気づかずに握りしめていた拳を、優しい温かさがそっと包んだ。驚いて横を見ると、キャルメ王女が彼の手を優しく握っていた。
「ごめんなさい……アトレーユの為に、ラスティグ様を危険な目に合わせてしまって……」
「……っ」
王女の謝罪に、ノルアードは胸を掴まれるような苦しさを覚えた。彼女は心からノルアードに対して申し訳なさそうにしていた。
それに対して、自分はアトレーユの命が燃え尽きるのを望んでいたのだ。
本当になんて自分は醜い人間なのだろう。いつからこんな人間になってしまったのだろうか。今まで考えることのなかった想いが、次々と胸に去来する。
感情すら自分の邪魔をすることを許さないようにしてきたはずだ。自分の目指すべき所は間違っていたのだろうか?そんな疑問が湧いてくる。
──感情を押し込めるためにつけていた仮面が、ボロボロと醜く崩れ落ちていくような感覚がした──
「おい!あれを見ろ!」
その時、護衛の一人が叫んだ。
彼は燃え盛る離宮の方を指さしている。
真っ赤に燃える城を背に、二人分の影がこちらへとやってくるのが見えた。
徐々に姿を見せたのは、ずぶ濡れになりながら、お互いを支え合って歩くラスティグとアトレーユだった。
「──っ!!」
キャルメは彼らを見た瞬間、護衛を振り切って走り出した。
遠くに見えるその姿を幻ではないと確かめるために走って、走って、そして最後は飛びつくようにその騎士を強く抱きしめた。
「ティアンナ!ティアンナ!ティアンナ……!」
何度も何度もその名を読んで、強く抱きしめる。彼女の温もりを確かめるように。
「ミローザ…ごめん……」
相当な心配をかけたであろうことに、アトレーユは謝罪した。
キャルメの背中を、まるで子供にするようにポンポンと優しく叩いて宥める。
「なんで貴女が謝るの?私がいけなかったのに……もう貴女を危険な目に合わせたくないの……どうかお願い。お願いよティアンナ……」
王女の懇願を困ったような笑顔で受け止める。彼女が何を言いたいのか、ティアンナはわかっていた。
だが騎士として、アトレーユとして、王女を守りたいという気持ちを捨てることはできない。
それはティアンナとしての願いでもあるからだ。
彼女は過去の後悔から女性としての生き方を捨て、厳しい騎士の道を選んだ。その選択をしたことに後悔はないが、ティアンナは女性である自分自身をずっと否定し続けてきたのだ。
だが今は違う。晴れ晴れとした気持ちが彼女の中にはあった。
騎士として生きたいと願うのは、自分の中のティアンナを否定するためではない。
ティアンナという自分から逃げるためでもない。
自分がそう望むからだ。
逃げるために、後悔するために生きるのではない。
ありのままに生きたいと自分自身が強く願うからだ。
「ミローザ……私の薔薇姫……貴女の騎士であることは、私の誇りです。それは憂うことじゃない──」
涙を浮かべた蒼い海のような瞳をしっかりと見つめて告げる。
「それは──私が生きてきた証だ」
ティアンナはそう言って晴れやかに笑った。
それはとても美しい笑顔だった。
ティアンナの隣に立つラスティグも、彼女を支えながら穏やかに微笑み頷いた。
「──っ」
キャルメはますます子供のように、涙をぽろぽろ流しながら泣きじゃくった。
棘のように心に刺さっていた罪悪感が、涙とともに優しく解けていった──




