1章70話 真紅の夜5 本当の名は
アトレーユをその腕に抱いたラスティグは、心の中から沸き起こる感情に今はもう戸惑ってはいなかった。
腕の中のその人は想像していたよりもずっと華奢で、シャツ越しに触れるその肌は柔く、強く抱きしめたら壊れてしまいそうだった。
自分が今まで感じていた想いに、なぜか晴れ晴れとした気持ちでそれを認めることができた。
(そうだ……俺は馬鹿だな……アトレーユは、彼女はこんなにも女性だったのに……)
己の過ちを悔い、また彼女が払ってきただろう犠牲を想って、ラスティグは息が詰まるような胸を掻き毟りたくなるような苦しさを覚えた。
キャルメ王女が必死で守ろうとした騎士。
彼女は自身の姿を偽ってでも、命がけで騎士として王女に仕えてきたのだ。
ふと腕の中のアトレーユに目を向ける。
必死に何かをこらえるように俯いている彼女は、とても健気で儚く、そして気高い美しさに満ち溢れていた。
彼は初めて自分の『家族』以外で、本当に守りたいと思うものを見つけた気がした。
本当は彼の心はずっとそうしたかったのかもしれない。
そのことに気が付かないようにしていただけなのかもしれない。
ずっと胸の奥にあったその想いは、今は優しく彼の心の中に溶けていった。
ラスティグはアトレーユを抱えたまま、通路の先の南側の扉を蹴破った。
激しい音を立てて、両開きの扉が部屋の中へと倒れた。そのままずかずかと部屋の中へ入ると、同じ調子でバルコニーへと続く窓の扉も開け放つ。
そこは離宮の裏手にある湖に面した三階のバルコニーだ。
月は出ておらず、階下で赤々と燃える炎の光だけが、闇の中の彼らを紅に染めている。
ラスティグは腕の中のアトレーユを見やると、口もとに穏やかな笑みを浮かべた。
「……怖いか?」
その言葉にアトレーユは黙って首を横に振った。そしてじっと彼の金色の瞳を見つめる。その瞳に映るのが自分だと思うと、喜びで胸が張り裂けそうになった。
アトレーユは抱く想いそのままに、美しい微笑を湛え言葉を紡いだ。
「……大丈夫。信じている」
アトレーユの紡いだ言葉は、ラスティグの胸の奥深くへ、暗闇に光が差すように届いた。
グッとその言葉を噛み締めながら、美しい紫の瞳を見つめ返す。潤んだその瞳はキラキラと赤い光を揺らめきながら湛えていた。
そしてラスティグは自らの望みを口にした。
「……いつか……本当の名を教えてくれるか?」
その瞬間、見開いた美しい紫色の瞳から、静かに一筋の涙が白い頬を伝った。
アトレーユとして流すことのできなかった涙が、いまここでティアンナとして流れ落ちたのだ。
それはきっとティアンナとしての自分だけではなく、アトレーユとしての自分が流している涙でもあった。
今まで泣くことのできなかった自分を、今は許してあげたい。
もうきっと大丈夫だと、そう思った。
グッとラスティグの服を掴むと、頷くようにその広い胸に顔をうずめる。
「……ありがとう」
その言葉を聞いたラスティグは、バルコニーの手摺りに足を掛けると、迷うことなく真っ暗な夜空に向かって飛んだ。
──二人の影が月のない夜空に浮かぶ──
──赤々と燃える漆黒の闇に、風を切る音とお互いの鼓動が聞こえた──
──落ちていっているのに、昇っていくかのような感覚がする──
──不思議だ──
──世界が反転していく──
──私の世界が壊れるのではない──
──私は私のままだ──
──そうあっていいのだ──
──生きたい──
──生きていきたい──
──私は私として……──
刹那、飛沫とともに大きな水音があたりに響いた。
真っ黒な水面に揺らめく炎の赤が、大きな波紋とともに広がっていく。
深く暗い水底へ、抱き合ったまま二人は沈んでいく。
騎士としての剣が、鎧が重いのだ。
迷うことなくその身につけるものをはずすと、二人は手を取り合って上を目指した。
もがいてもがいて、やっと水面との境界にたどり着き、上の世界へと必死に手を伸ばす。
彼らはそれを掴み、そして一気に暗い水底から抜け出した。
──ついに彼らの世界に光が差した──
二人は大きく息を吸い込んで、それと同時に飲み込んでしまった水を、息と一緒に吐き出した。
「はぁっ…はぁ……っごほっ」
「はぁ…はぁ……アトレーユ、大丈夫か?」
「あぁ…、水を少し飲んでしまった」
そういって笑い飛ばす。生きていることに安堵して、なんだか笑いたくなってしまった。
「……そうだな。俺も飲んだ」
二人の間に、明るい笑い声があがった。まだ状況は好転してはいない。
それでも二人にとっては全てが大きく変わったのだ。
ひとしきり笑い終えると、アトレーユは真剣な表情でラスティグを見つめた。
「……ティアンナだ」
「え?」
驚いたようにこちらを見つめ返すラスティグに、再び微笑みを浮かべていった。
「私の本当の名前はティアンナだ」
自分の本当の名を告げながら、不思議と内から自信がわいてくるような気がした。
「……ティアンナ……」
その名を噛み締めるように呟く。
「……良い名だ」
そういって見つめる眼差しの中には、愛しさが織り交ぜられていた。
二人の影が水面にたゆたうように映し出されていた。




