1章65話 ある少年の物語4 決意の眼差し
しばらくして、少年たちの母親は亡くなった。
少年は埋葬される母親の棺を、黙って上から見下ろしながら、生前の母の笑顔を思い出そうとしていた。
しかしいくら思い出そうとしても、彼女の本当の笑顔は出てこない。
最期まで母の心からの笑顔が、少年に向けられることはなかった。
母が亡くなったことが悲しいのか、本当の笑顔を向けられなかったことが悲しいのか。
少年の心にはその判別はつかなかった。
苦い想いで傍らに立つ弟を見る。
彼もまた深い哀しみと、後悔の入り混じったような表情で、棺をじっと見つめていた。
もう少年には、彼だけしかいなくなってしまった。公爵家という大きな館の中で、本当の意味で家族と呼べるもの。
母の魂を鎮めるための鎮魂歌が、知らない大人たちによって歌われている。美しいその歌声に、皆は涙を流していた。
少年は虚しい気持ちで、彼らを見ていた。
ここにいるどれだけの人間が、母のことを本当に知っていたのだろう。
息子である自分さえも、ほとんど何も知らないのだ。
彼が知っているのは、痩せた華奢な体に、自分と同じ黒髪と金の眼、そしていつも悲しそうに笑う母だけだった。
美しい調べの鎮魂歌が、薄墨の曇った空へと高く響き渡る。
しかし少年の心は、その調べによって動かされはしなかった。
やがて歌も終わり、シャベルを手にした黒い喪服の男たちが、土を母の棺にかけはじめた。
無言で次々と土がかけられていく。
ザッ……ザッ……という低い音だけが、あたりに響いた。
少年はここで初めて、母との別れを感じた。
これが本当に最後なのだと。
悲しい笑顔以外見せてくれることのなかった母。
決して何も教えてくれることのなかった母。
思い出せるのは、悲しい笑顔と痩せて骨ばった手の感触だけ。
それも今は、冷たい土の下に埋められようとしている。
どんなに求めても、もう母はいないのだ。
もう会うのを夢に見ることすらできない。
またひとつ、ザッ……と土が棺にかけられていく。
次第に棺が土に隠れて、見えるのはほんの一部だけとなった。
じわりと涙が溢れ、少年の頬を伝う。
ザッ……ザッ……
ザッ……ザッ……
涙を滲ませながら母の棺に最後の土がかけられるまで、じっと目を離さないでいた。
そしてすっかり棺が土の下に埋まってしまうと、大人たちはもう用はなくなったというように、散り散りに屋敷へと戻っていった。
それでも少年はそこから動かなかった。
もう土で隠れてしまった場所をずっといつまでも見ていた。
ふと気づくと、隣には同じように弟が立っていた。
彼もまた少年と同じで、母の棺のあった所をじっと見ている。
少年は弟を見た。
弟もまた、顔をあげ少年を見る。
一言も言葉を交わさないまま、彼らの視線は交差した。
その時どんよりとした雲が、ついにこらえきれなくなったかのように、ぽつぽつと地上に冷たい雫を落とし始めた。
土に落とされた雨粒が、あっという間に土の色を濃く黒く染め上げていく。
降り始めた雨は、すでに周囲の音を全て遮断するほど、地面を叩きつけていた。
冷たい大粒の雨が、暴君のように彼らを鞭打つ。
それでも少年たちは視線を合わせたまま、その場から動かない。
向こうに見える栗色の瞳は、鋭い決意の炎に燃えていた。
弟が向けるその真っ直ぐで強烈な想いを、少年は心の中に、しっかりと受け取った。
無言で手を弟に向けて伸ばす。
激しい雨が、それを邪魔するかのように、痛いくらいに彼を打ち付けた。
しかし少年は決してその手を引くことはなかった。
そしてまた、弟も少年に宿る決意の炎を受け取ったようだ。
伸ばされたその手を、少年の眼を見つめたまましっかりと握る。
手を握り合った二人は、そのまましばらくの間、雨に打たれ続けていた。
やがて彼らは、その手を放すことなく、雨でぐしゃぐしゃにぬかるんでしまった道のりを、無言で屋敷に向かって歩き始めた。
少年は雨ですっかり冷えてしまった手の中に、微かに弟の熱を感じた……




