1章64話 ある少年の物語3 母の笑顔と死の影
うまく隣の部屋からバルコニーを伝ってやってきた二人は、外から部屋の中の様子をうかがった。どうやら母以外他に誰もいないようだった。
少年たちは無言でうなずき合うと、窓の取っ手に手をかけた。そしてそれをガタガタと揺らすと、緩くなっていた留め金は割と簡単に外れた。そして彼らは部屋の中へと入った。
「母さん、起きてる?」
今まで少年の後ろにいた弟が母へと駆け寄って、真っ先に声をかける。
「あぁ……ノルアード、来てくれたの?」
起きている母は、優しい笑みを弟へ向けると、その栗色の柔らかい髪の毛をなでた。弟は嬉しそうに母を見つめている。
少年はそんなやり取りを少し離れた所で見ていた。なぜだか足が、床に縫い付けられたかのように動かない。
唇に少し痛みを感じた。自分でも気づかぬうちに、唇を強く噛んでいたようだ。
「この花を取ってきたんだ。母さん好きだろ?」
そういって弟は、ポケットの中から、ハンカチに包んだ青い小さな花たちを渡した。少しだけつぶれてしまったそれらは、ハンカチを綺麗な青で染めている。
「ありがとう……こんなにたくさん」
母親は愛おしそうに、その小さな花を指先で優しく撫でた。
母の白い指先についた青色は、それまで見た色の中で、一番綺麗な青色だった。
その様子に、少年はまるで自分が母の優しい指でなでられているかのような心地になり、クラクラと足元から崩れるような眩暈を感じた。
「……ラスティグも……ありがとう」
少し遅れて少年に気が付いた母親は顔をこちらに向けると、その美しい金色の瞳に涙を薄っすら浮かべて少し切なげに笑った。どこかぎこちなさを残すその笑顔は、見ていて痛々しくもあった。
──これは彼女の心からの笑顔ではない──
……そう少年には思えた。
母はいつも哀しみや憂いを覆い隠すように、少年に向けて無理に笑っているようだった。
(あぁ……母様はやっぱり僕なんかいらなかったんだ……だから……)
今まで感じていた夢のような眩暈は少しずつ形を変えていった。
そして彼の中に重く、深く、沈んでいく……
心の中の暗く光の届かない深淵こそが、まるで彼にとっての安寧の地であるかのように……
言葉で表すことのできない複雑な感情を隠すように、少年は母親に向けて他の大人たちに向けるのと同じ笑顔を作った。
さも悲しくないように、いい子を演じて、にこやかに本心を隠す。その行為は少なからず、少年自身の心を傷つけた。だが、病気の母親にそんな胸の内は見せられない。
「いいんだ。森の近くにたくさん咲いているから。だからいつでも取ってこれるよ?」
そう言って少年は淡い期待を込めて、母を見つめた。もっとこの部屋へ来てもいいという理由を、母から自分に向けて言ってほしかったのだ。
しかし母は、その少年の言葉に返事をするよりも先に、口もとを押さえて咳込んでしまった。
次第にその咳はどんどん激しくなっていく。細く小さな背中を丸く縮こまらせ、息を吸い込むのでさえ苦しそうに、激しい咳と呼吸を繰り返す母親に、少年は何もできないでいた。
そしてついには、彼女の痩せて骨ばった白い手に、赤い飛沫が飛び散った。
綺麗な青に染まっていた指先が、恐ろしい赤色に染まっていく──
ゴホゴホという咳の音と、それに血しぶきの音が入り混じった嫌な音が部屋の中に響いた。二人の兄弟はどうすることもできない戸惑いと、ガクガクと足が震えるほどの恐怖で、真っ青になって言葉を失った。
そうして何もできずにいるうちに、母の様子に気が付いた大人たちが、部屋に入ってきた。
勝手に部屋に入っていた少年たちは、特にとがめられることもなく、すぐに治療のために医者が呼ばれ、慌ただしく行きかう大人たちによって、兄弟は部屋から閉め出されてしまった。
呆然と部屋の外で立ち尽くす少年たち。それでも二人は中から聞こえる言葉に、じっと耳を傾けた。
しかしそれすらも、戻ってきた父親によって、叶わなくなってしまった。
父は彼らを見つけると、咎めるように片眉だけをくいと上げ、一言だけ発した。
「今はお前たちにできることは何もない」
冷たく言い放たれた言葉と共に、母の部屋の扉は父の背中によって遮られてしまった。大きな壁のように立ちはだかる父の作る長い影が、少年たちの小さな体にまで伸びている。
──少年たちに迫るその影は、母親の死という名の影だった──




