1章56話 少年の心4 踏みにじられた心と青い花
その日は朝からずっと雨が降っていた。
ここ最近降り続いている雨のせいか、母の容態が思わしくない。
「容態はどうだ?薬は効いたか?」
ハーディンが病床に伏せるミーリアの様子をうかがう。部屋の外で、医者は静かに首を横に振った。
「……そうか……」
ハーディンはその返事を聞くと、難しい顔をしてどこかへと行ってしまった。
母親の身体に障るからと、子供たちが見舞をする時間は限られていた。
ノルアードとラスティグは、ハーディンがいなくなったのを見計らうと、こっそり二人して母の部屋へと忍び込むことにした。
隣の部屋のバルコニーを伝って、窓から入る算段だ。以前からここの窓の留め金は緩くなっており、それを知っていた彼らは、度々こうして人目を盗んでは忍び込んでいた。
しかし今日は雨が降っているため、バルコニーの手摺が非常に滑りやすくなっている。
「おっと、気をつけろよ」
足を滑らしそうになったノルアードを支えて、ラスティグが声をかける。
「わかってる」
彼らはお互いの手を取って助け合いながら、何とか隣の母親のいる部屋のバルコニーへと渡った。
窓の留め金を開けて中へ入り込むと、母親は大きなベッドの上で眠っていた。
母が眠っていることを少し残念に思いながら、摘んできた青い小さな花をベッド脇のサイドテーブルの上に置いた。
この小さな花は、ラスティグとノルアードの二人で取ってきたものだ。雨の中、森の近くまでいって探してきた。
雨の雫がキラキラと小さな青い花弁の中で輝いている。
ただ花を摘んできただけだったが、二人の少年は満足げな表情をした。
その花は高価な花でも、病気を治すような魔法の花でもない。野に咲く、どこにでもある普通の花だ。
しかしその青い小さな花は、母ミーリアが大好きな花だった。二人は病床の母を笑顔にしたくて、その花を取ってきたのだ。
と、そこへ部屋の扉の外側から人がやってくる声がした。
「まずい。隠れよう」
慌てて二人は雨に濡れた体を、ベッドの下に押し込めて、身を隠した。
侍女と共に現れたのは、ハーディンであった。彼は部屋に入ると、侍女に向けてひそひそと話をはじめた。
「お忍びでこちらへ来られるから、すぐに準備を……」
「お子様たちには……知らせるのですか?」
「いや……あのお方はそれを望んではいない……ミーリアがこんなことになってしまったことが、ひどく辛いのだ」
「……ですが……せっかく王子殿下が見つかったというのに会われないなんて……」
「だが今更王子が見つかったなどと騒ぎになれば、お命が危険にさらされるだけだ。二人には気付かれないように……いいな?」
「……はい。わかりました」
ハーディンは指示を出すと、再び部屋から出て行ってしまった。
ベッドの下でじっと息を殺してその話を聞いていた二人は、侍女が部屋を出て行ったあとも、しばらくその場から離れることができないでいた。
濡れた体から流れ落ちた雫が、毛足の長い絨毯に不気味な形のシミを作っていった。
先に動いたのはラスティグだった。ベッドの下から抜け出すと、まだ下にいるノルアードに向けて手を伸ばす。
「……行こう?」
ただ差し出されたその手に、ノルアードはなんだか少し救われたような気がした。
ラスティグの手を取ると、ぐっと力を込めて握られる。そして暗く湿ったベッドの下から、光の下へと一気に引き出された。
「大丈夫……君には俺がいる」
手を握りながら、ラスティグはそう言って僅かに微笑んだ。
その笑顔に勇気づけられて、そのまま二人で部屋を抜け出すと、何事もなかったかのように、自分たちの部屋へと引き下がった。
その後、部屋からは出ないようにと養父のハーディンから厳命されたが、二人ともこれから屋敷に来るであろう人物を目の当たりにするため、表向きは素直に頷いただけだった。
しばらくして、一台の馬車が屋敷の外に停まったようだ。
雨でぬかるんだ道を急いで走ってきたようで、泥が撥ねて黒い車体を汚していた。どこにでもあるような辻馬車のようだが、騎馬の護衛が何人も不自然についている。
部屋の窓からその様子をこっそりと覗くと、慌てた様子で馬車から目的の人物が降りてきた。
二十代後半くらいに見えるその人物は、栗色の髪を振り乱しながら、屋敷に入っていった。
「………」
窓越しにその人物をじっと見ていたラスティグは、難しい顔をして黙り込んだ。どうやらその人物に心当たりがあるようだ。
「お前あれが誰だか知っているのか?」
その問いにラスティグは黙ってうなずいた。眉間にしわを寄せて、なんだか怒っているようだった。
「王都の屋敷に行ったときに見かけたことが……侍女たちが話しているのを聞いたんだ。あの人が母様を連れて行ったんだって」
「連れて行ったってどういうことだ?一体あれは誰なんだ?」
つい気持が急いて、ラスティグに詰め寄る。ラスティグは拳を握りしめ、何かに耐えるように声を絞り出した。
「……多分……あの人がノルアードの父上だと思う……」
その言葉を聞いた瞬間、ノルアードは沸き起こった怒りで何も考えられなくなった。無意識のうちに部屋を飛び出し、制止する使用人たちをものともせず、母のいる部屋へと駆け出した。
たどり着いた先で部屋の扉を、バンっ!と大きな音を立てて開き中へと入った。
ベッドの側近くにいたその男は振り向いて、入ってきたノルアードを見た。
その眼が次第に驚きで見開かれていく。その様子をつぶさに観察して、ノルアードは怒りでこわばった顔に、口もとだけの自嘲の笑みを浮かべた。
(確かに似ているかもな……)
男の栗色の髪と、栗色の瞳は、まさにノルアードと同じだった。目の前の困惑で揺らめく瞳が、行き場をなくしてさまよっている。
ノルアードはそんな男に詰め寄ると、怒りをぶつけるかのように、彼の服を掴んで思い切り睨みつけた。
男は驚いて後ろに後ずさると、よろめいてベッド脇にあったサイドテーブルに手をつく。
その拍子にテーブルが揺れ、ノルアード達が摘んできた青い花が下へと落ちた。
キラキラと輝いていた雫が、薄い花弁から零れ落ちる。あっという間に雫は絨毯に吸い込まれ、その輝きは失われてしまった。
「……あんたが母さんをこんな風にしたのか……?」
自分でも驚くほど低い、かすれた声がでた。勿論その言葉に含まれる意味は、そのままの意味合いではない。
自分たちが貧しく、母がこんな病気になるまで放っておいたのは、目の前の男のせいなのだと、ノルアードは確信していた。
「……」
ノルアードの言葉に、男は何も返せないでいた。ノルアードはその沈黙にイラつき、服を掴む腕に力をこめて揺らした。
「何とか言えよ!」
そこへ使用人に連れて来られたハーディンが、慌てて部屋に入ってきた。
ノルアードの腕を掴むと、男から引きはがす。抵抗してもみ合いのようになっているうちに、ノルアードははじき飛ばされ、地に伏した。
その時、彼の目に青い花の残骸が映った。
踏み荒らされたその小さく青い花は、痛々しく潰れ花弁が取れてしまっている。その無残な姿に、惨めで空しい気持ちが絨毯にシミを作るように、じわじわと彼の心の中に広がっていく。
彼はその花の残骸を手に取り優しく包むと、俯いたまま立ち上がった。大人たちが何も言えないまま、彼を見守っていた。
しかし彼はもう大人たちを見てはいなかった。
心の中に今までぽっかりと開いていた穴を埋めるものは、父親や家族ではなかったのだ。その時、彼の中で、何かが大きく変わってしまった。
「……お騒がせして、申し訳ありませんでした」
礼儀作法で習ったお辞儀をすると、平静を装って大人たちに視線を合わせる。そこにはもはや子供のノルアードはいなかった。
子供らしいはつらつとした感情は、貴族的な仮面の表情で覆い隠され、まるで人形のようですらあった。
「……ノルアード……」
部屋から出ていこうとするノルアードの背中に男は声をかけたが、ノルアードが振り向くことはなかった。
そのままバタンと扉が閉じて、ノルアードと男の間の繋がりは、一瞬で断ち切られた。
彼の名を呼んだ後、男が何を言おうとしたのかは永遠にわからなかった。




