1章55話 少年の心3 兄弟と流れる雲
それからしばらくの間、ノルアードには何人もの教師がついて、彼は礼儀作法や勉強を教わった。ノルアードは非常に優秀だったため、すぐにラスティグと同じくらいまで成長した。
しかし一つだけ、彼がラスティグに敵わないものがあった。
それは剣術だ。
共に父のハーディンに教わって剣の稽古に励み、試合などもしたが、彼がラスティグに勝ったことは一度もなかった。
ラスティグは見た目はひ弱な貴族のお坊ちゃんだが、いつも剣に関してはノルアードの前を行っていた。元々修行していた期間が違うのだから当然の結果なのだが、それでもノルアードにとっては不満だった。
そもそも最初からラスティグのことが気に入らなかった。
今更兄弟といわれてもピンとこない。ノルアードは、いきなり現れた兄というやつに、母親を取られたような気分になっていた。
彼らの母親は医者の治療の甲斐もあり、まだ出歩くことはできないが、以前より少しは回復を見せていた。
それはノルアードにとって嬉しいことであったが、今は多くの人間が周囲におり、母と二人の時間を過ごすことができない。ラスティグや養父のハーディン、また多くの使用人たちだ。
特に大人達は何故か母ミーリアの事を、まるで腫物を扱うかのように接していた。母もどこか気まずそうにしていて、ノルアードはそのことが気にかかっていた。
そんな中、今日も母のいる寝室のすぐ下にあたる中庭で、ラスティグと剣の練習に励む。少しでも母に自分の声を聴かせて、元気になってもらいたいからだ。
「たぁっ!」
堅い木製の剣を握り、カンと乾いた音を立てて相手に斬りかかる。
しかしラスティグはいとも簡単にノルアードの剣をかわし、すぐさま隙をついて攻めてきた。
そしていつもの調子で、あっという間に勝敗は決した。
「……なんでお前そんなに強いんだよ」
周囲に大人がいない所では、礼儀作法などそっちのけだ。ノルアードはラスティグが兄だろうが貴族だろうが、ぶっきらぼうな態度で突っかかる。
「いっぱい練習しているから。ていうかノルアードは剣の才能ないよ」
ラスティグは弟の態度など気にする様子もなく、素直な感想を言った。嫌味なく真正面からきっぱり才能ないと言われて、また一つ不満が溜まっていく。
彼は自分でも才能がないのはわかっていた。だが嫌味っぽく言われたならまだしも、正直に真正面から言われるのとでは全然訳が違う。
剣の才能もさることながら、素直でまっすぐなその性格にすら嫉妬した。自分がこんな風にひねくれているのは、育ちのせいだとノルアードは心の中で愚痴る。
なんだか面白くない気分になって、木剣を放り投げてその場を後にした。
「どこへ行くの?」
ラスティグは後を追いかけてきた。
「ついてくるなよ。お前には関係ないだろ?」
「関係あるよ。俺の弟だもの」
どこまでもついてくるラスティグをひたすら無視して、屋敷から離れた緑の丘まで早足でかけてきた。
ここは王都にある屋敷ではなく、地方の領地にある屋敷の一つで、とてものどかなところだ。人々が開墾した田園風景が広がり、自然あふれる土地に、領主であるストラウス公爵の屋敷と、公爵が治める村々がある。
ノルアードは一人になりたくて、よく屋敷近くの緑の丘にきていた。しかしこうやってラスティグに見つかっては、その度に一緒になっていた。
その不満をぶつける為、後ろを歩くラスティグに対していつものように顔を見ずに悪態をつく。
「お前だって本当は弟なんかいらないんだろ?俺のことが気に食わないはずだ」
本当は気に食わないのは自分の方なのだが、そんなことはお構いなしだ。
そのままドカッと草の上に座ると、丘の上から景色を見下ろした。
「そんなことないさ。……弟ができて本当に嬉しい」
少しはにかんだように笑うと、ラスティグはノルアードの横に座った。
彼の全然気にしていない様子が面白くなかったので、ふんっと鼻を鳴らしてそのまま黙って景色を眺める。
風が草を柔らかくなで、青く澄んだ空には、鳥が遠く羽ばたいているのが見えた。
穏やかなその景色にゆったりとした時間が流れ、二人の関係がいつもより和らいでいるように感じる。
「……母様ってさ……君らが二人だけで住んでいた時、何か俺たちのことを言っていた?」
唐突にラスティグがそんなことを聞いてきた。
今まで彼を邪険にしてきたノルアードであったが、一瞬言葉に詰まる。何故なら今はラスティグの事情を、少しはわかっていたからだ。
だが彼は本当の事は言わない。言うつもりもない。
「……そんなことは知らないな」
自分には関係ないとわざと突っぱねる。
するとラスティグは悲しそうに顔を顰めて俯いた。
再び沈黙が二人の間を支配する。今は彼らの間を吹き抜ける風は、寒々しいもののように感じた。
(こいつは俺と同じだ……俺は父親を知らないが、こいつは母親を知らない……)
ラスティグが物心ついた頃には、すでに母は彼らから離れて暮らしていた。
ノルアードにとっても同じだ。物心ついた頃から父親はおらず、貧しく母と二人だけの生活だった。
隣に座り、同じ景色を見ているのは、たった二人だけの血のつながった兄弟。
ラスティグにとってはそのつながりは、喜びであり幸せなのだろう。しかしノルアードにとってはそうではない。
血のつながった兄弟といわれても、家族のように相手を想う気持ちにはなれない。自分の中で何かが欠落しているような、そんな気がするだけだ。
何故なら二人は母に捨てられた兄と、父に捨てられた弟でしかないのだ。
青い空にかかる雲が、次第にその速度を上げて過ぎ去っていく。まるで空の下にいるちっぽけな彼らなどには、全くの無関心であるように。
しばらく黙ってそれを見ていたが、なんだか虚しくなって、屋敷に戻ることにした。どちらからともなく、重い足取りで帰路につく。
その頃には徐々に厚い灰色の雲ができ始めていた。




