1章49話 心の声
戦場で胸に傷を負ったアトレーユは、いまだ目覚めてはいなかった。部屋の外では他の護衛達が心配そうに、彼女の回復を待っている。
王女は付きっ切りで彼女の世話をしていた。しかしアトレーユの容態は、あまり芳しくはなかった。
キャルメ王女はベッドの脇で、眠り続けるアトレーユの手を握りしめていた。アトレーユの白い手には、昔よりも多くの傷がつき、所々固くなっていた。
王女はその手をいたわるように撫で、自らの頬によせると、眠る騎士に向けて話しかけた。
「ティアンナ……ごめんなさい。あなたがアトレーユとして生きるしかなかったから、こんなことに……全て、私のせいだわ……」
眠り続けるアトレーユの側に跪き、その手に頬をよせたまま王女は泣いた。
動くことのないアトレーユの手が、王女の涙で濡れる。
それでも彼女は、起きることはなかった。
「ティアンナ……ティアンナ……お願いよ……」
騎士としての名ではなく、彼女の本当の名を呼び続ける。
「どうか……目を覚まして……」
王女の嘆きが、部屋の中に消えていった。
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深い眠りの底で、アトレーユはその悲しみに満ちた優しい声を聴いていた。
──どうしてだろう……キャルメが泣いている──
アトレーユは真っ白な空間の中に、一人佇んでいた。
ここがどこであるかはわからない。
だがふわふわと漂うような、優しい幸福感に包まれるような感じがした。
ふとそこに、一人の少女が泣いているのを見つけた。
それは幼い頃のキャルメ王女だった。
アトレーユは彼女に近づいて、そっと泣いている幼いキャルメに手を伸ばす。
──泣かないでミローザ──
その手が王女に触れた途端、一瞬のまばゆい光とともに、幼いキャルメ王女は、幼い頃の自分の姿になっていた。
驚いて手を引くと、泣いていた子供の自分は、顔を上げてまっすぐにこちらを見つめた。
『アトレーユはどうして彼を助けたの?』
彼女は見習い騎士の姿をして、アトレーユに向かってそう問うた。
その言葉に、アトレーユはぎくりと身体を強張らせる。
『アトレーユはティアンナに戻りたいの?』
幼い自分が何を言わんとしているかを悟る。
──これは……私自身の願望なのか?──
いつの間にか幼い自分自身の姿は消え、そこには一人の青年が立っていた。
黒い髪をなびかせ、美しい金色の瞳を優しく細めて、微笑んでいる。
その姿を見て、なぜだか胸が苦しくなった。
『……ティアンナ……』
黒髪の青年は、彼が知ることのない彼女の本当の名を呼び、こちらへ向けて手を差し出した。
アトレーユは混乱した頭を左右に振り、その幻を消し去ろうとした。
それを見て黒髪の青年は、寂しそうな顔をすると、霧のように掻き消えた。
──違う……私はアトレーユだ。王女を守るための騎士だ。弱いティアンナではない──
自分自身に言い聞かせるように何度も呟くと、さらに胸の痛みはひどくなる。
ふと自分の身体が、血で紅く染まっているのが見えた。
胸から血がどくどくと流れ出ている。
驚いて手で胸を抑えるが、流れ出る血は止まらない。
──どうして──
彼女の問は、真っ白な空間に吸い込まれていくだけで、答えるものはなかった。
流れ出た血が、足元に真紅の血だまりを作っていく。
アトレーユは膝からそこへ崩れ落ちると、その紅い血だまりに映る、自身の姿を見た。
胸を押さえて苦しむその姿は、女性の姿をしたティアンナだった。
彼女の辛そうな表情は、本当の姿に戻れない苦しみを訴えているようだった。
──どうして……どうして……──
その言葉を発したのは、騎士の姿をしたアトレーユか、それとも女性の姿のティアンナか。
自分自身でもわからなかった。




