1章30話 王女の寝顔とアトレーユの想い
「もうあなたたちは下がっていいわ」
そういって王女は手を振り、離宮の侍女達を下がらせる。
自室へ戻り、湯あみをしてすでに床につく準備を整えた王女は、離宮の豪華な一室でアトレーユを一人残し、くつろいでいた。王城の居室よりかは幾分か小さな部屋だが、調度品はとても豪華で、壁には大きな絵画が飾ってある。また王女の為にしつらえたかのように、花が所々に飾られていた。
天蓋付きの寝台に腰をおろしながら、王女はアトレーユに話しかけた。
「それで今日はここで一緒に寝るのかしら?アトレーユ」
そういって自分の騎士を悪戯っぽくみつめる王女は、いつもと違いどこか元気がない。それはアトレーユの不安を感じ取っているからだ。そんな王女の心優しさにアトレーユはふと笑みをこぼし、同時に自身を情けなく思った。
「眠りはしません。交代で見張ります。それに明日には兄上たちの軍が、こちらへ来てくれるでしょうから。もう安心ですよ」
王女にとって命の危険は去ったとしても、別の危険がつきまとう。次期国王の座を狙い、王女を手に入れようとエドワードが画策するかもしれない。王子である高貴な人間がそんなことをするとは思いたくはないが、エドワードはどこか信用できないとアトレーユは思っていた。
幸いラスティグも近くの部屋に控えてくれているようで、多少は安心であるが所詮彼はラーデルスの人間だ。本当に信用できるのは自国の人間のみである。
王女と他愛もない話をかわして、そのまま眠りにつくキャルメをそっと見守る。
しばらくして、可愛らしい寝息が天蓋つきのベッドの中から聞こえてきた。そのあどけない美しい寝顔に、アトレーユは自身も女性でありながら暫し見惚れていた。
王女が身じろぎした時、金色の柔らかい巻き毛が、つと顔を覆うように流れ落ちた。
アトレーユは王女を起こさないように椅子から立ち上がると、王女の髪をそっと指で直した。
一瞬頬に手がふれたが、その感触はまるでマシュマロのように柔らかく、触れただけで壊れてしまいそうに繊細だ。
アトレーユは王女に触れた自分の手をしばらく見つめた。その手は普段剣を握っているため剣だこができており、女性の手でありながら、少しごつごつしている。擦り傷や痣の痕もかすかにあった。
この手は、王女を守るという自分の矜持を支える勲章のようなものだ。だから何も恥じることなどないのだ。心の中でそう言い聞かせている自分に気が付いた。
ぐっと拳を握りしめ、自分の胸に押し当てた。目を閉じ下唇をギュッと噛み締め、そんな言い訳がましい自分を叱咤する。
女性らしくない自分の手を擁護するなど、馬鹿馬鹿しい。とっくの昔に女性として生きることを捨てたではないか。何を今更惜しむことなどあろうか。胸の中に今まで置き去りにしてきた葛藤が嵐のように渦巻いてくる。
瞼の裏に、黒髪の背の高い騎士の姿が浮かんだ。金色の目を柔らかく細めて微笑んでいるラスティグだ。
頭をふって、必死にその姿を消そうと試みる。なぜその姿が思い浮かぶのか、そんなことを気にする心の余裕はなかった。
目を開け、再び安らかに寝ている王女の姿を目に映す。美しく、慈愛に満ちた、高貴なその人は、アトレーユを信じてその身を任せてくれている。
彼女の為なら、自分はどんな辛いことでも耐えてみせよう。悪魔とだって契約するかもしれない。自分の中の不届きな感情を押しやるために、そう必死で考えようとした。
しかし運命はあざ笑うかのように、闇の中に潜み、彼らを狙っていた。
そしてアトレーユ達はそれを知る由もなかった。




