2章117話 秘密の約定
輝かしい砂漠の都ヴィシュテール、その表の世界とは対照的に、血生臭い裏の世界がある。
かつて奴隷達をかき集めて血の饗宴に湧いた闘技場──
今でこそ健全な大衆の娯楽の場となっているが、その名残が完全に消えたわけではない。奴隷や囚人を繋いだ地下牢は未だ機能しており、そこには新たな罪人達が入れられていた。
(全く忌々しいことだ……)
口に出そうになる苛立ちを噛み殺しながら、アスランはその地下牢へと向かっていた。
闘技場が襲撃されてから既に二週間が経過している。数日前に王都へと戻ったアスランは、闘技場の襲撃に関わった多くの者をこの地下牢に捕らえていた。だが最も気がかりなのは彼等のことではない。
苦々しい想いを噛み締めながら、地下牢に続く階段を部下を従え降りていく。高く響く靴音は、捕らえられた囚人の耳にも届いているだろう。
階段を下りきって奥へと進むと、罪人達が繋がれている牢が見える。そこには先の闘技場で反乱を起こした部族の者や、テヘスの一族に繋がりがあると思われる者達が入れられていた。
アスラン達が彼等の牢の横を通り過ぎると、罵声を上げる者もいたが、すぐに兵士の威嚇で静かになる。ほとんどが牙を抜かれ、生気を失っているように見えた。
そんな陰鬱な空気が立ち込める中、アスランはふと思う。
(果たしてあの男も同じだろうか──)
捕らえられて気概を無くし、全てを諦めているならば、己が闘うのには値しないだろう。
(だが──)
──……負けるつもりはない。必ず彼女を祖国へと連れ帰る──
揺るぎない眼差しには、確固たる決意が見えた。そしてその言葉の裏には、ティアンナへの恋慕と、約定を違えるなというアスランへの戒めがあった。
あの男は知っているのだ。
アスランがロヴァンスの国王と交わした秘密の約定を──
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──約二か月前──
『十年前に一度取り付けただろう。貴国の姫君との婚約を。和平の証として、それを今一度実現しようではないかと提案しているのだ』
ロヴァンス国王との謁見の場──身分を偽り使者としてやってきたアスランは、両国の和平の証としてロヴァンスの花嫁を求めた。
『ふむ……だが今更その婚姻を実現したとして、本当に両国の間に和平が訪れると?まさか十年前に何があったのか忘れたわけではあるまい』
(やはり渋るか……)
十年前の花嫁は死の旅路を行き、その後トラヴィスが内戦へと突入したのは記憶に新しい。ロヴァンス側も当時かなりの死者が出ていたから、国王のウラネスがこの提案に躊躇うのも当然だろう。
『姫君との婚姻をお望みだというが、我が国の王女は皆、すでに嫁いでしまっている。その提案を受け入れたくともできないというのが実状だ』
眉間に深い皺を寄せながら、ロヴァンスの国王は言葉を濁す。王女が皆嫁していることはアスランも知っている。だが王女である必要が無いことは、ロヴァンスの方がよく心得ているはずだ。
『血にこだわる貴国らしい言い分だな。我々にとって血とは地。その土地に生きる者達のことであり、厳密な血筋というものは関係ないとも言える。それでも気になるというのであれば、近しい血縁の娘を花嫁とすればよい』
そうアスランが言えば、国王とその側で控えている将軍だろうか。年配の二人がひくりと微かにその表情を歪めた。
(俺の皮肉に気が付いたのだろうな。あの二人は確実に十年前、あの場にいたのだから……)
表情を硬くする相手を内心嘲りながら、アスランは自分がこれぞと思った人物を花嫁に推挙することにした。血筋よりもアスランの目的を達することのできる花嫁の方が重要だ。
『決められないというのなら私から提案させていただこう。それでもいいかな?』
『既に花嫁を決められていると?』
『あぁ、貴国の花嫁については思い当たる人物がいる。確か……騎士でティアンナとか言ったか……』
『っ──!?』
アスランの提案にその場にいる者達が息を飲む。思った以上の反応だ。
(これは余程、高貴な出の娘か……それとも既に婚約者でもいるのか?)
女騎士を指名したのは、花嫁にすぐに死んでもらっては困るからだ。賢く強い人間が望ましく、ティアンナなら問題なくその役目を果たしてくれると思った。
(何よりあの芯の強そうな所が気に入った。あれならばきっと期待通りの働きをしてくれるだろう)
『……しかしかの騎士は妃としての教育を受けておらぬ。王の妃に相応しいとは言い難いかと思うが』
『だが貴国と我が国とでは、妃に対し必要とするものが違うだろう?それに必要であればこちらで対応するから心配することはない』
『……それもそうだが……』
『陛下……』
突然のことに、すぐにはその意見がまとまらないようだ。だがアスランは長々と議論するつもりはない。彼の中ではもうティアンナに決まっている。
『私としては彼女以外には考えられん。それとも他に相応しい候補がいるとでも言うのかな?』
『……確かに彼女以上に、貴国へと遣わす花嫁に相応しい者はいないかもしれない』
『陛下っ、ですが!』
『……このタイミングでのトラヴィス側からの提案だ。セガロン、父親としてのお前の気持ちもわかるが、国としてどう動くかを考えねばならん』
ウラネスの判断に俄かに周囲がざわつき始める。だがアスランには確信があった。自分の意見が通ることを。
『そうであろう……?使者殿、他ならぬそなたの提案だ』
『流石、陛下はよくわかっていらっしゃる』
ウラネスは気付いているのだ。アスランこそがトラヴィスの王であると。これがただの両国の和平の為だけではないということを。
『……少しそなたと二人だけで話がしたい』
『っ──陛下それはっ!』
『私の方は構わない。こちらの提案が通るのであれば』
『では使者殿、奥の間へ。他の者達はしばし待つように』
そう言って国王ウラネスは奥の間へとアスランを案内した。そこは王が休憩や密談をする際に使用されるのだろう。限られた調度品のみが置かれたこじんまりとした部屋だった。
『護衛も無しとは随分不用心なのだな』
『はは、それはお主もであろう?使者殿』
アスランが何気なくかけた言葉に、ウラネスは笑いながら返した。やはり気付いているのだと確信する。
『私を討ち取ったところで、貴国には何の利益もないからな。むしろ余計な争いを生みかねん』
『その通りだ。だがわざわざ国王自らやってくるとは思わなかったぞ……十年ぶりか』
『やはり気が付いていたか』
『勿論、あの日の事は忘れることはできないからな……あぁ、立ったままですまなかった。座ってくれ。それにしても今回の件、余人を交えなければ理由を聞かせてもらえるのだろう?』
座るよう促されソファに深く腰を沈めると、ついにウラネスは核心に触れた。早く真意を知りたくて仕方がないのか、身を乗り出している。
『正直な所、貴国の土地に興味はない。だからこの縁組についても、そういった意味での意図は無いと受け取ってもらっていい』
『それは意外な言葉だな。これまで何度も土地の所有について貴国との間で争いが絶えなかったが』
『他の者はそうかもしれん……が、こちらの国力では到底手に入れられるとは思ってもいない。また手に入れた所で気候の違う土地での暮らしに、民たちは耐えられんだろうよ。既に何百年も砂漠で暮らしていてそこに根付いている。まぁどのみち夢語りでしかないが』
『では一体どういう意図があるというのだ?勿論両国の和平の為というのであれば賛成だが、騎士を花嫁に所望するからには何かあるのだろう?』
ウラネスは十年前の当時あの場にいたからこそ、アスランの思惑を知りたがるのだろう。再び多くの血が流れる可能性があるのなら、それを許しはしないと。
だがアスランにとっては逆なのだ。このまま放っておけば、いずれまた多くの血を見る事になると確信している。
『過日、我が国がラーデルス王国へ侵略したと、かの国から抗議があった。それは貴国も承知しているであろう?』
『あぁ、それについては我が国からも抗議させてもらったはずだ。我が国の王女が滞在している離宮が狙われたからな』
『あれは私の関知しないものだった。動いたのは、十年前に砦を襲った者達の一味だろう』
『っ何──!それは誠か?!』
『十年前の襲撃は、我が国の戦闘奴隷の一族が仕出かしたことだ。奴らは先々代の王に仕えていたが、我が一族への憎悪は根深く、貴国との同盟に反対だった』
『だからといってあのような……』
当時を思い出しているのだろう。ウラネスは痛まし気に眉根を寄せ、息を詰まらせる。
『それが奴らだ。我が一族が、ロヴァンスとタゥラヴィーシュ、その両方の地を手に入れようとするのが余程許せなかったのだろう』
アスランはそこで言葉を切る。土地と血族に関する問題は根深い。タゥラの一族でさえ、ロヴァンスの血を厭う者もいれば、約束の地に住まう者とありがたがる者もいる。信仰心と感情は相反するものなのだ。
『その後、奴らは内戦の混乱の中で姿を消した……今思えば内戦が起こるよう煽ったのも奴らだったのかもしれないが。内戦が終結した後は静かにしていたようだが、ここ最近奴らの活動が活発になってきている。国内だけでなく隣国へ浸食していたとは、私も思わなかったが』
『……その戦闘奴隷の一族の狙いはなんなのだ?トラヴィスの土地が手に入らないから、ラーデルスや我が国を狙うというのだろうか』
『さてな……詳細は奴らに聞かねばわからんだろうが、おそらくは大きな戦でも起こしてこちらを疲弊させることが狙いだろう』
『そういうことか……だがそれは貴国だけで対処するのは難しいのだろうか。ロヴァンスとの縁組がどう繋がるのかよくわからぬ』
『──花嫁は囮だ。前回やラーデルスでのことを考えれば、必ずロヴァンスの花嫁を狙うだろう。我らは奴らを確実に潰したい。ふらふらと一つ所に留まらない者達だ。花嫁は奴らをおびき出す良い餌になるだろう』
『しかし……』
アスランの言葉に、ウラネスは迷っているようだ。それもそうだろう。十年前の凄惨なあの場にいた張本人なのだから。
『このまま何もせずにいればもっと多くの血が流れるか、知らぬ内に国の内部を腐食させられるかのどちらかだろう。貴国は難しくとも、周辺の国がそうなるかもしれない』
ラーデルスの一件がまさにその言葉を証明している。テヘスの一族が更に大きな力を手に入れれば、それはロヴァンスにとっても脅威になるだろう。そうなってからでは遅いのだ。
『囮としての花嫁か……だがこちらにとっては大事な騎士だ。そのように使い捨ての駒にするわけにはいかぬ』
『あの者がそう簡単に死ぬとは思えないがな。勿論、王の妃としてちゃんと守る。それに役目を果たした後に望むならば祖国へ戻してもいい。その条件ならどうだ?』
『……それは……』
『よくよく考えた方がいい。どちらが国にとって利があるのかを。騎士の命と国としての命運、そのどちらが重いかは考えなくともわかるはずだ』
『…………』
しばし黙考するウラネス。だがアスランにはこの提案が受け入れられる確信があった。十年前もその提案を受け入れ、花嫁に残酷な役目を負わせたのはこの王なのだから。
『……わかった。貴国の提案を受け入れよう』
その言葉に、アスランは満足気に笑みを返したのだった──




