2章113話 ぎりぎりの交渉
(ナイル!?……ここまで追って来たのか?!)
闘いに乱入してきたのは、先の戦場でラスティグに刃を折られ、姿を消したはずの男──ナイルだった。今はその片翼の刃のみを携え、兵士達を切り裂いている。
「……こんな所でまみえるとはな…………くく…………いや、こんな所だからこそか…………」
ナイルの姿を認めたアスランは、何故か奇妙な笑みを零していた。それはまるでこの邂逅に喜びを感じているかのように。
一方のティアンナは、足に怪我を負ったラスティグの元へ駆けつけていた。
「ラスティグっ……!ラスティグ!」
「……ティ……アンナ……すまない……油断した……」
「いいっ!そんなのいいから……!」
足に怪我を負い、額から玉のような汗を流して蹲るラスティグ。小さなナイフが刺さったにしては尋常ではない様子だ。
嫌な考えが頭をよぎる。けれどそれを肯定したくなくて口を噤めば、こちらの様子を一瞥したアスランから答えがもたらされてしまった。
「ヒドラの毒か……やはりテヘスの一族だな……」
(──毒──!!)
頭から真っ逆さまに地面に叩きつけられるような衝撃。ティアンナは激しい怒りと動揺で、声にならない悲鳴を上げた。
いくら鍛え抜かれた騎士といえど、毒に侵されてしまえばどうにもならない。周囲は敵ばかりで味方は誰もいない。ましてやアスランはラスティグを殺すつもりなのだ。
(嫌だ……ラスティグ……嫌だっ……!)
その先にある恐ろしい未来を想像し、それを必死にかき消そうとして激しく頭を振る。何もできない自分がもどかしくて、許せなかった。
「っ……ぅぐっ……くっ……!」
「ラ、ラスティグっ……!」
いつの間にかラスティグは自分でそのナイフを抜き去っていた。足からはドクドクと血が溢れ出している。慌ててティアンナは己の纏う薄絹をその傷口に押し当てた。
鮮血が白い衣を真っ赤に染めていく。まるで彼の命を吸い上げていくかのように、それはあっという間に色を変えていった。
「嫌だ……血が止まらない……嫌だ……」
「……ティアンナ……大、丈夫……これでも毒には……くっ……体を慣らしている……から……」
「でもっ……!」
「心配、ない……」
涙を浮かべるティアンナを安心させるように、ラスティグは笑みを浮かべた。だがいくら毒に慣らしているとはいえ、夜通し馬を走らせてた後でのこの状況。既に身体は限界を迎えているはず。
このまま碌に治療もしなければ、確実にラスティグの命は蝕まれていくだろう。焦りだけが加速する。
そんな二人をよそに、アスランは既にその刃を新たな敵──ナイルへと向けていた。
「ようやく借りを返す時が来たようだな。この間は不覚を取ったが、今度はそうはいかぬ」
そう言うや否やアスランはナイルへと斬りかかる。以前はその刃に押されていたものの、今のナイルは二刀を持ち合わせてはいない。そこに勝機を見出したアスランは、素早い連撃を繰り出していた。
──ギィンッ!ガッ!!ギィンッ!!──
だがナイルも只者ではない。軽い身のこなしで相手の刃を受け流しつつ、その合間に鋭い攻撃を繰り出していた。
拮抗しているように見える両者の技量。だがその体格と持久力においては、アスランの方が上回っていたようだ。そして──
──ギィンッッ……!!──
一際大きく鈍い音が響いたかと思うと、片翼の刃が宙を舞う。次第に明るくなりつつある朝焼けの空に、儚い三日月の如き光が放物線を描く。
──勝敗が決したのだ。
「……さて、お前をどうしてやろうか」
鋭い切っ先をナイルの鼻先につきつけ、アスランは傲慢な笑みを浮かべた。今にも相手を殺さんとするようなその表情に、ティアンナは慌てて声をあげる。
「ま、待って!待ってくださいっ……!」
「……なんだ、ティアンナ…………何故止める」
突き付けた刃をそのままに、アスランは怒りを滲ませた。絶対的な王者の威嚇に肝を冷やすも、ティアンナは引き下がるわけにはいかなかった。
「…………解毒剤を……」
「はっ!……その男の為か」
今度こそアスランはその怒りを露わにした。その拍子にナイルの喉に鋭い切っ先が食い込み、鮮血が首を伝う。だがアスランはその手を緩める気配はない。
代わりにもう片方の手を挙げ、部下に指示を出した。指示を受けた兵士達は、すぐにナイルを拘束し、その身の自由を奪う。ナイルは抵抗を試みようとしたが、更に深くなる首元の切っ先になす術を無くした。
そうしてナイルを捕らえてからようやく、アスランはティアンナの方へと向き直った。
「この男はまだ殺しはしない……情報を聞き出さねばならんからな。だがそっちの男を生かしておく理由はない」
「そんなっ……!」
非情な言葉にティアンナは悲痛な叫びをあげた。ラスティグは既に意識が無いのか、目を閉じていて動かない。触れれば微かな鼓動を感じるも、いつそれが止まるともわからない。今はラスティグの命を繋ぐ為に、アスランに縋るしかなかった。
ティアンナの必死な様子に何を思ったのか、アスランはある提案をした。
「……まぁいい、解毒剤はくれてやる。テヘスの使う毒は、我々も熟知しているからな」
そう言うとアスランは部下の一人に命じて解毒剤を用意させた。イサエル達との戦いに備えて準備していたのだろう。ティアンナは悲痛な面持ちのまま、ラスティグに解毒剤が処方されるのを側で見守った。
「さて、望み通り解毒剤をくれてやったぞ。それで花嫁殿は代わりに何をしてくれる?」
さも当然のように代償を求めるアスラン。だがティアンナには彼が何を求めているのかわからない。
「……貴方は何を望む」
「くくく…………そうだな…………お前をこの国に縛り付けることを条件にしたい所だが……それではつまらんだろう。命を盾にその気高い心を思うままにするのは好かん」
そう言ってアスランはしばし黙考した。ラスティグの命を盾にして、ティアンナを縛り付けるのは簡単だろう。だがあえて別の選択肢を用意するという。その気まぐれがどう転ぶのかは分からない。
「この男との決着がつかないままだったな。この男はお前を連れ戻しにきたのだろう?」
「……」
「では勝負の続きをしようじゃないか。勿論それに相応しい舞台を用意してやろう。そこでお前の運命が決まる。それを受け入れることが条件だ」
「運命……?」
「勝者がお前を手に入れるのだ。命がけの戦いのな」
「っ……それは……!」
「これ以上の交渉はしない。既にもう解毒剤を与えたのだ…………代償は必ず支払ってもらう」
「……」
アスランの強い言葉にティアンナは俯いた。自分のせいで、ラスティグが命を懸けた闘いを強いられるのだ。足手まといにしかならない自分が、悔しくて仕方ない。
「さぁ、ティアンナ。都へ帰るぞ」
ラスティグの側から離れようとしないティアンナにしびれを切らし、アスランは強引にその腕を掴んで引き寄せる。そして耳元で低く囁いた。
「……これ以上時間がかかれば、治療が上手くゆかずに男の命がついえるかもな……大人しく従うのが賢明だ」
「っ──……」
アスランの牽制にそれ以上の抵抗はできず、ティアンナは感情を無くした人形のように腕の中へと納まる。
ラスティグへの悲痛な想いを、必死にその胸の奥に隠しながら──




