2章111話 対峙
──ヒヒィィン……──
荒野の夜空に遠く鋭い嘶きが響く。
(来たか──……)
追手が迫ってくるのを感じ、ラスティグは馬の速度を上げた。
敵の拠点から抜け出し、街道を目指してひたすら西へと進んで来ていた。可能な限り急いできたが、道が不案内なラスティグ達に対して、相手は土地を良く知っている者達だ。追いつかれるのも時間の問題だった。
(……足跡を辿られたか……流石に地の利があるな……)
東の空は既に色を変えていて夜明けが近い。背後から聞こえる蹄の音は、まっすぐにこちらを目指している。既に姿を捉えているのだろう。
馬は一晩中走らせたから、そこまで速度が上がらず、追手との距離は次第に狭まってきている。
「ラスティグ……すまない……」
「大丈夫だ。君が謝る事は一つもない」
「でも私が途中寝てしまっていたから……急ぐことができなかっただろう?」
「そんなことはないさ……元々馬に無理をさせていたせいだ」
申し訳なさそうに俯くティアンナに、ラスティグは首を横に振った。彼女をこのままロヴァンスへ連れ帰ろうと判断し、行動に移したのはラスティグだ。準備が十分でなかったのは確かだが、それは彼女のせいではない。
(……それにこれ以上はもう無理だ)
ナイルに追い詰められているティアンナを見た時、ラスティグの脳裏には同じくナイルの凶刃に倒れたジェデオンの姿が過ぎっていた。
このまま敵の手中にいてはティアンナを失うかもしれない──そう感じてしまえばもう、一刻も早く彼女を連れ帰ることしか頭になかった。
「もうすぐ国境へと続く街道が見えるはずだ」
見つめる先には、未だ夜の闇色に染まる国境の山。それを越える街道まで辿り着けさえすれば、こちらのものだ。街道沿いの街にはチャンセラー商会の拠点があり、それでなくとも人混みに紛れさえすれば追手をやり過ごせる。
だがそんな思惑はすぐに打ち砕かれた。
──ヒュンっ!──
風を切る音。背後で地面が抉れる音がする。
「ティアンナ、掴まってくれ……!」
「っ……!」
敵の襲来に身構える。馬も鬼気迫る想いを感じ取ったのか、先ほどよりもぐんと速度を上げた。
だが追手は既に狙いを定めたと言わんばかりに、怒涛のような蹄の音と共に押し寄せてくる。ぐんぐんとその距離は縮まり、あっと言う間に包囲されてしまった。
「そこの者、止まれっ!!」
「っ──」
(囲まれたか──)
追い抜かれ、進む先にも騎乗した兵士の姿。無理に抜けるのは危険だと判断し、ラスティグは馬を止めた。
だが簡単に相手の手に落ちるつもりはない。睥睨するように見回せば、兵士達は既に武器を構えていた。その中から一人が、前へと進み出てくる。
暗闇の中でも鋭く光を放つ尊大な眼差し。研ぎ澄まされた刃のような空気をまとい、その男は口を開いた。
「花嫁を返してもらおう。それは私の花嫁だ」
低く怒りに満ちた声が闇の中に響く。全身で放つ殺気は、花嫁を奪う者へ容赦はしないという強い意志の表れだろう。前へ進み出てきたのは、アスラン王自身だった。
(……トラヴィス王自ら来たか──)
ラスティグはこちらを睨みつけてくるアスランを前に、冷静にその様子を観察した。
未だ武器を構えてさえいないのに、眼前に刃を突き付けられているかのようなひりつく気配。その凄まじさに驚嘆してしまう。
普通の者ならば、対峙しただけで平伏してしまうだろう。これまで多くの敵と対峙してきたラスティグでさえ、思わず膝を折ってしまいそうなほどだ。それだけ絶対的王者の放つ殺気は凄まじいものがあった。
一方のアスランは、ラスティグを虫けらを見るような目で一瞥すると、未だその腕の中にいるティアンナへと声をかけた。
「ティアンナ、我が花嫁殿。迎えに来たぞ」
「っ……」
しかしティアンナはそれに答えない。顔を青ざめさせ身を固くしている。
「ティアンナ?」
訝し気にもう一度その名を呼ばれて、ようやくティアンナは顔を上げた。だが見つめる先はアスランではなくラスティグだ。
(……そうか、君が心配して怯えているのは俺のことか)
不安げに揺れる紫の瞳に、ラスティグは彼女が何に怯えているのか気付く。だが彼とてそう簡単に敵にやられるつもりはない。
「大丈夫だ、心配ない」
「っ…………」
安心させるように大きく頷けば、ぎゅうっと強く腕を掴まれた。
ラスティグがティアンナを失うことを恐れているように、彼女も同じ気持ちをラスティグに対して抱いているのだ。
その事実に胸が熱くなる。互いにはっきりとその気持ちを伝えてこなかったが、確かにティアンナの心には、ラスティグへの想いがあるのだ。
(……必ず君を連れて帰る……)
決意を新たに再びアスランへと対峙する。視線の先には、先ほどよりも凄まじい怒りと憎悪をその瞳に宿す男の姿があった。
「余程死にたいと見える……それは下賤の者が触れていい女ではないぞ」
王の怒りに呼応するかのように、兵達がラスティグに向けてその刃を構える。
だがラスティグは落ち着いていた。彼には己の信念を貫く正当な理由があった。
「俺は役目を終えた花嫁を祖国へ連れ帰る者──」
「っ──!!」
「トラヴィスの王よ……先の戦いで、ロヴァンス王との約定は成されたはず。引き留められる謂れは無い」
「っ──貴様……何故それを……!」
それはティアンナですら知らされていない事実。花嫁を連れ帰るよう秘密裏に命じられたラスティグだけが知る約定だった。
「ラスティグ……貴方は一体……」
「ティアンナ、大丈夫だ。役目を終えた君が祖国へ戻ることは最初から決まっていた。だからこそ俺はここに来たんだ。君を守り、祖国へと連れ帰る為に」
「っ……」
「だから何も心配はいらない。君は十分その役目を果たした」
ティアンナはたった一人、降りかかる困難を乗り越えここまでやって来たのだ。騎士として過ごせぬ中では辛い事も多くあっただろう。ラスティグの言葉にティアンナの瞳が涙で滲む。
だが想い合う二人のやり取りは、アスランの怒りを燃え上がらせるだけだった。
「……状況をわかっていないようだな。ここは貴様らの土地ではない。ここでの貴様は只の盗人だ」
「っ──」
不遜なる七色の瞳が、夜明けの空に冷たく輝く。
「我が花嫁をかどわかす不届き者を殺せ──」




