2章110話 ひと時の安息を
星の微かな光に照らされて、一頭の馬が荒野を駆けていく。馬上には一組の男女が身を寄せ合っていた。
「ティアンナ、寒くないか?」
「大丈夫、これくらいなんともない」
「だが疲れているだろう?夜は冷える。もっとこちらへ」
「うん……」
二人はラスティグが隠していた馬に乗って戦場を抜け出し、今は北の山脈に沿って西に進んでいた。
「……本当にこのままロヴァンスへ抜けるの?」
「あぁ……もうそのように君達の商会も動いているはずだ」
「商会が……」
目まぐるしく動く戦況に思わず眉を顰める。ティアンナが闘技場から連れ去られて、商会も本格的に動いたのだろう。だがわからないことがあった。
「……でもどうしてラスティグが?」
ロヴァンス王国の特務の拠点として、チャンセラー商会は存在している。普通であればその商会の動向をラーデルスの騎士であるラスティグが知るはずがない。
するとラスティグから思いもよらぬ言葉が返って来た。
「君と最後にロヴァンスの屋敷で会った後、俺は君の兄上や姉上に頼まれたんだよ。君の力になってほしいと」
「兄様達が……?」
ロヴァンスで会った最後の時、確かにその場には義理の姉であるマルデラが同席していた。彼女の気遣いによって、二人きりで話すことができた。あの後、マルデラがラスティグに何か言ったのだろうか。
「今回の事はノルアードも知っているし、王妃殿下の為にも君の事を頼むと言われているんだ」
「キャルメも……」
騎士としての誓いを立て、生涯守ると心に決めた姫君。キャルメを守ることは己の誇りであり、また精神的な支えでもあった。
だが騎士としてラーデルスに残りたいとアトレーユが言った時、キャルメはその願いを退けた。これからは別の道を探してほしいと言って。
悲しくて苦しくて、悔しかった。何度心の中で叫んだだろう。どうしてダメなのかと。
だがそれを言葉にはついぞできなかった。共にあると信じていた王女は去り、進むべき道を見失ったのだ。だからこそ縋る想いで騎士としての道を見つけ、この国にやって来たのに──
「…………」
それ以上言葉を紡げなくて目を伏せ俯くと、ラスティグが優しくその身体を包み込んだ。
「……ティアンナ、君は自分が思うよりもずっと周りの人から大切に思われている。キャルメ様もノルアードも、勿論君の家族だって」
「っ……」
「君が行こうとする道がどんなに険しくても、彼等はそれを見守ってくれるだろう。けれど……本当に苦しくなったら逃げてもいいんだ。誰も君を責めやしない。皆、君が大切なんだ。君を愛しているから」
その言葉にじわりと胸が熱くなる。騎士として強くある為に、周囲から向けられる優しさを見ないようにしていた。自分は独りでも立てるのだと。
でもそれは独りよがりな強さでしかないと本当はわかっていた。己の弱さから目を背けることこそが弱さなのだから。
「ラスティグ……私……」
「あぁ……」
「……騎士としての居場所がなくなってしまうのが……怖かったんだ」
「……そうか」
一つ一つ思いを口にすれば、ラスティグが優しい相槌で答えてくれる。ティアンナの抱える悩みやしがらみ、その全てを共に背負おうとするかのように。
「だから……この国の花嫁として選ばれた時、その役目に縋りついた……」
「うん……」
「キャルメが……ミローザが、私が彼女の騎士でいることをダメだと言ったから……だから私は……」
「あぁ……わかっている……全部わかっているから……」
心に抱えるものをありのままに吐き出せば、その想いと共に涙が溢れてくる。嗚咽を堪えるように肩を揺らせば、より強くその逞しい腕に抱きしめられる。
「でも……騎士としてでなく、ただの弱い女でしかなくなって……何もできなくて……悔しくて、もどかしくて、苦しくて………凄く…………怖かっ……た」
「もう大丈夫だ……もう大丈夫……誰にも傷つけさせはしない……」
「ラスティグ……」
溢れる涙をどうする事も出来なくて、幼子のように彼の胸に顔を埋める。ずっと張り詰めていたものが解かれていくようで、優しいその温かさに今度は別の涙が零れてくる。
「……ロヴァンスに戻れたら……その時は……」
「あぁ……」
胸に抱くその想いをうまく伝えることが出来ぬ内に、いつしかティアンナは眠りの底に堕ちていった。
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一方その頃──
「うぅ……どこだここ……」
情けない声を出して暗闇の中をうろついているのは、攫われたティアンナを追ってこの荒野までやってきたユリウスだ。
不用意に音を立ててしまい敵に見つかりそうになった彼は、今は峡谷から少し離れた場所にいる。だが身を隠す為にやたらと逃げ回ったせいで、方向を見失っていた。
「どうしよう……このまま俺死んじゃうかも……エドワード様の為にこんな所で死ぬなんて……うぅぅ」
彷徨い続けて弱気になっているユリウスは、大きなため息を吐きながら近くの岩場に腰かけた。夜が明けるまで動かない方がいいと判断したのだ。
「……明るくなったら場所もわかるだろう……うまくいけば食料くらい手に入れられるかもしれないし……」
はぁ、ともう一つため息を吐いた彼は、いつしか微睡の中へと落ちていく。
それから暫くして──
「おい……おい!」
「……んん……何……?」
すっかりと眠りこけていたユリウスは、背中を押されるような感覚と呼びかける声に意識が浮上した。
目をうっすらと開ければ、まだ周囲は暗い。だがチラホラと明かりのようなものが見える。一体何なんだと目をこすろうとして、そこでハッと意識が覚醒した。
(ヤバいっ!見つかった!!)
慌てて身体を起こして周囲を見回し、腰の剣に手を回す。だがその手は上から押さえつけられてしまった。
まずいまずいと内心焦っていると、呆れたような声音が頭上から聞こえてくる。
「おい、ちゃんと目を覚ませ。相変わらずお前は寝坊助な奴だな、ユリウス」
「え……?」
自分の名前を呼ばれ目を丸くするユリウス。何故ここにその名を知る者がいるのだろうと顔を上げると、そこには更に目を丸くする相手が立っていた。
「ジェラルド様……?」
「あぁ、久しいな。だがエドワード様付きのお前が、何故ここにいる?」
そこにいたのはラーデルス王国騎士団副団長の老騎士ジェラルドであった。ユリウスの上司であり、普段は王都の騎士達をまとめる役割を担っている。
かつては騎士団長として務めていたが、年齢を理由に引退。その後、何人か団長が入れ替わり、年若いラスティグが団長として任に就くことになって副団長として騎士に復帰した人物である。
「そ、それはこちらの台詞ですよ。ジェラルド様こそ何故こちらに……?ここはトラヴィスの北の端のはず……」
「やはりそうか……ここがトラヴィスとなると、陛下の予想は当たっていたのだな」
「……どういうことです?」
老騎士ジェラルドが納得したように呟くのを見て、ユリウスは味方に出会えた安堵よりも、驚きでいっぱいだった。
「とにかくそちらの状況を知りたい。エドワード様はどちらにおられる?」
「い、今は王都のヴィシュテールにおられるはずです。ロヴァンスから来られた花嫁が何者かに攫われて、俺はそれを追ってここまで来たので……」
そう報告していると、横から別の声が掛かった。
「どういうことだ?!その話を詳しく聞かせてくれ!」
「え?!貴方は──」
突然現れたその相手に、ユリウスは驚きの声をあげた。




