2章109話 それぞれの思惑
未だ戦闘が続く峡谷の南側には、トラヴィスの正規軍が陣を敷いている。
戦況はトラヴィス側が有利であったが、部下からの報告を聞いたアスランは怒りを露わにしていた。
「逃がしただと……?」
「ひっ……!す、すみません……!」
勝利は目前なのに、未だティアンナが見つからない。しかも敵側の頭領も取り逃がしたと言う。
「何故だ!見つかったと報告があっただろう?!」
「そ、それが崖を下ったところでお妃様を発見したようなのですが、そこで激しい戦闘があったらしく……報告に来た部下が戻った時には既にお妃様の姿が消えていたそうで……」
「くそっ……!!」
ティアンナを見失い、アスランは焦りを感じていた。
元々囮として丁度いいからと手に入れた花嫁だった。騎士である彼女ならば、その身に何かが起きたとしても、問題ないとの打算もあった。だが──
「捜索隊を出せ!こちらの包囲を抜けるとしたら、更に北だろう。ティアンナだけで逃げたとは考えにくい。未だ敵の手中にあるはずだ」
「はっ!」
湧き出す怒りを何とか抑え込み指示を出す。今は目前の勝利よりも、ティアンナの無事が気になって仕方がない。
「痕跡が見つかったら報告しろ。俺も出る」
「王よ……それは──」
「奴らはもうこの拠点を捨てた。残党はヒラブの部隊に任せればよい」
「はっ……!」
指示を受け動き出す兵士を見送り、アスランはため息と共に天を仰いだ。峡谷の狭い空に、微かな星の瞬きが見える。祈るような気持ちでそれを見上げ、闇の中にティアンナの姿を探した。
己の野望の為に犠牲をしいた美しい花嫁。だが今はもう、彼女を失うことなど考えられない。
「くそっ……必ず見つけ出す……!」
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一方その頃、峡谷の北側には闇に紛れて進む一団があった。イサエル達の軍勢である。
先の戦いの勝敗は決しており、これ以上の戦いは無駄だと、既に戦線を離脱していた。
「アスランの奴め……若造と侮りすぎたか……」
苛立ちを滲ませながらイサエルは呟いた。アスランを罠に嵌めたつもりが、逆にまんまと覆えされてしまったのだ。だが本来の目的がついえたわけではない。
「あれだけの戦力をここまで投入してくるとはな……だがそれだけ花嫁の囮としての効果があったというわけだ……くく」
苛立ちから一転、くつくつと可笑しそうに笑うイサエル。多くの犠牲を払うだけの価値が、今回の戦いにはあったと確信している。
アスランを討てれば上々。例え討てなかったとしても、多くの兵達と共にここまで連れ出すことができただけで十分な成果である。
「楽しそうね?イサエル」
「あぁ、これが楽しくないわけがないだろう?」
「ふふ」
イサエルの横で嫣然と笑うのは、側近のゲーラ。ラーデルスへの潜入を経て、今はイサエル直属の戦闘部隊として動いている。
「でも大丈夫?だいぶ死人が出てしまったわ」
「問題ない。どうせほとんどがミンドラの民だ」
「あら、悪い人ね」
悪びれのないイサエルの言葉に、ゲーラはくすくすと可笑しそうに笑う。
元々北西の岩石地帯はミンドラの一族が住まう土地だ。だがアスランへの叛意を唆し、協力するように仕向けたことで、そのほとんどが今回の戦闘に参加している。テヘスの一族の犠牲はそこまでではない。
「……戻る頃には全ての準備が整っているだろう。土地盗りに相応しい舞台がな」
「ぞくぞくしちゃうわ」
「そんなにか?」
「えぇ、だってラーデルスの王妃になり損ねちゃったんだもの。折角公爵家に入り込んで、王子様を洗脳していたってのに……」
「そうだな……だがお前が欲しいのはその地位ではないだろう?」
「どうかしらね?自分の思うままに国を動かして、戦をさせるなんて、とっても楽しそうじゃない?」
「なら土地盗りを成したらやってみるか?テヘスの一族を虐げてきた者達、その全てを相手に殺し合う戦を」
「ふふ……とっても面白そうね」
「全てはこの土地を手に入れてからだ──」
砂漠の闇に潜んだ死の影が、次なる目的へ向けて密かに動き出していた。




