2章106話 死の梟再び
突如としてそこに現れたのは、小柄で目の大きな童顔の男。以前よく知っていた愛嬌のある顔立ちには、今は感情の無い人形のような表情が張り付いている。そしてその両腕には、血の滴る刃が二つ握られていた。
その男──かつてキャルメ王女の護衛騎士隊で、アトレーユと共に戦った同士──ナイルである。
「どうしてここに……?」
アトレーユが問いかけるもそれに対する返事はない。こちらの言葉に反応すらしていないように見える。
(イサエルに捕まっていたのか……?それともトラヴィス軍に?)
ナイルが先日トラヴィスの王宮を襲ったことは記憶に新しい。だがその彼が何故この場にいるのか、アトレーユにはわからなかった。
いつもの明るい調子で冗談を言っていた男の面影はそこにはない。まるで見知らぬ人間のように、纏う空気そのものが違うように見える。
身体に浴びた大量の返り血に何も感じないのか、感情の波が一切ないその悍ましさに、アトレーユは本能的な恐れを感じた。
『ミツケタ』
「え?」
紡がれた言葉に思わず声を漏らす。それは聞き覚えのない言語だった。
「ナイル……お前は一体……」
『ロヴァンスノ花嫁ミツケタ』
ナイルはアトレーユにわからない言語を放ったかと思うと、目を瞬いたその一瞬の間に目の前からいなくなる。
あ、と思った次の瞬間──
「ぎゃぁぁあっ!」
「ぐぁっ……!」
闇の中から聞こえてくる断末魔の悲鳴──
多くの死がそこにもたらされているというのに、剣戟の音すら聞こえない。そこにあるのは最期の呻きと、そして血飛沫の散る微かな音だけ。
(何故…………ナイルっ……)
背筋が凍るような底知れない恐怖──それは自分が殺されるかもしれないという、そんな単純なものではない。
かつて同じ目的の下に信頼を預けていた仲間が、今はただの殺戮人形のように何の感情も見せず、何の躊躇いもなく、人の命を刈り取っているのだ。その事実に戦慄する。
足元からガクガクと震えがくるような感覚。縫い付けられたようにこの場から動くことができない。
「う……お妃さ……っ!ぐはっ!」
──ヒュンッ!……ドサッ……──
暗闇の中、命が次々と消えていく。一体どれだけ奪われたのだろう。騎士として自分も相手の命を奪ったことはあるが、それでもこれとは違う。これはただの殺戮だ。
『……ロヴァンスノ花嫁──』
「っ──」
気が付けばそれまで鳴っていた剣戟や断末魔の声が全てなくなっていた。その場にいる者達を殺し尽くしたナイルが、呆然と佇むアトレーユの前に現れる。
足音は聞こえない──闇の中、早くなる己の呼吸と鼓動の音だけが異様に大きく聞こえてくる。
(……静かすぎる……)
トラヴィスの軍勢だけでなく、追ってきていたイサエルの手下の気配もない。それが意味するもの──
(……全員、やったのか……?)
悍ましい現実に、凍えるような寒気がした。
「っ──」
顔色一つ変えずに近づいてくる血塗れの男を、地面に落ちた松明の明かりだけが照らし出している。
燻る炎が時折爆ぜ、暗闇の中にやけに大きく響くその音にさえ、ナイルは微塵も表情を変えずに近づいてくる。
何の感情も映さない、恐ろしく凪いだ湖面のような瞳。その奥に、どんな思惑が蠢いているのかもわからない。
アトレーユは身を固くして後ずさる。それは本能的な恐怖だった。
(誰だ……この男は……こんなのはナイルじゃない…………)
凍えるような恐怖の中、喉はひりつき、真昼の砂漠にいるような酷い乾きを覚える。まともに息をすることさえ許されない。そんな異様な空気が辺りを支配していた。
「どう……して……」
『……?』
ようやく絞り出したその言葉に、ナイルはコクリと首を傾げる。初めて見せた感情の動きらしきもの。だがそこに彼の意志はない。単に相手の挙動に対する反応に過ぎなかった。
(そうか、これが……この男が……兄上を殺そうとしたんだ……)
アトレーユは唐突に悟った。ナイルがジェデオンを斬ったというのが、紛れもない事実であったことに。
最初にその知らせを聞いた時は、到底信じることができなかった。信じたくなかったというのが本当の所かもしれない。
かつて信頼し、背を預けた仲間。同じ目的の為に戦っていたはずの男が……彼を最も信頼していたであろうジェデオンの命を奪おうとしたのだ。
そう思った時、これまで言葉にならなかった感情が一気に溢れ出した。
「ナイルっ……どうしてこんなことを……何故兄上を…………ジェデオンを斬ったんだ……!」
『……?』
アトレーユの悲痛な叫びに、今度こそナイルは感情らしきものを垣間見せその歩みを止めた。
だが相変わらず顔色一つ変えずに首を傾げるのみ。まるでアトレーユが何を言っているのかわからないとでも言うように。
『……花嫁、ツレテイク』
止めた歩みの代わりに、血に塗れた手がアトレーユへと延びる。無情な梟の瞳が微かな月の光に煌めき、獲物を捕えんとしたまさにその時──
──ヒュンッ!!──
『っ──!?』
不穏な気配そのものを断ち斬るような鋭い一閃。危険を感じた梟は後ろへ飛び退り、気が付けば闇よりも濃い影がその間に立ち塞がっていた。
「彼女には触れさせない──お前の相手は俺だ」




