2章102話 宵闇の序曲
「報告!南西よりこちらへ向かう複数の騎馬部隊あり!」
突如として外に響いた声。それはアトレーユとイサエルのいる天幕にも聞こえてきた。
「……思っていたよりも早かったな……」
イサエルは小さく舌打ちをすると、すぐさまその身を起こした。花嫁を蹂躙せんとその衣に手を差しかけた所であったが、アトレーユにとって幸運なことに邪魔が入ったようだ。
イサエルは寝台から降りると、脱ぎ捨てた上着を身に着け、腰に剣を差す。そして寝台から身を起こしたばかりのアトレーユの腕を取り、強引に立たせた。
「来い」
「……一体どこへ」
イサエルはその問いに答える代わりに、手近にあった布でさるぐつわを噛ませると、手枷につないだ鎖を引き、アトレーユを連れて天幕を後にした。するとすぐさま見張りの男がイサエルへ報告にやって来た。
「タゥラの軍勢が迫ってます。もう半刻もしない内に、峡谷の入り口まで差し掛かるかと」
「予想よりもだいぶ早いが、むしろ夜の方が好都合だ。予定通り決行を」
「はっ!」
命を受けた男は、スッと身を引くとそのまま闇の中に姿を消した。
イサエルはそのまま何事もなかったかのように、天幕の間をするすると歩いて行く。敵対する軍勢が迫っているというのに随分と冷静だ。
アトレーユはその後を着いていきながら、奇妙な感覚を覚えた。普通ならすぐさま戦時に移行すべき場面なのに、まったくその気配がない。むしろ静かすぎるくらいである。
(……なんだろう……この落ち着きようは……それにこの静けさ……)
天幕の外にある灯もそのままだ。まるでここを見つけろと言わんばかりに、煌々と焚かれている。にもかかわらず先ほどまであった人の気配が、今はもうなくなっている。
「もうすぐ花嫁の迎えが来るようだ。我らも高見の見物といこうか」
イサエルは前を向いたままそう呟いた。残酷な愉悦を含んだその言葉に、アトレーユは男の狙いが何であるかを悟った。
(まさか……これは……)
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「敵の拠点らしき場所を発見しました!北東部の岩石地帯、峡谷の中のようです!」
「ふむ、峡谷か……」
イサエルの痕跡を追ってやって来た北東の最果て。斥候の報告を聞いたアスランは、しばし黙考した。
アトレーユを連れ去った者達の後を追い、ようやく見つけ出した敵の拠点。アスランが王になってから、その実態を把握しきれたことはなかった。
十年前──アルゴン王が亡くなった後に起きた内戦による混乱の最中、戦闘奴隷の一族たちは姿を消した。兄王サウルヴァスも彼等を再び手中に収めようと奔走していたようだが、結局叶わずににアスランの代まできていたのだ。
奴隷制度自体は、貧民街の出であるアスランが王に立った時、民からの支持を得るために無くしたのだが、それでも消えたテヘスの一族が戻って来ることはなかった。
裏で暗躍するかつての戦闘奴隷達。アスランは王になってから幾度も彼等の存在を思い知らされることになった。
トラヴィスの正規兵を装ってラーデルス王国へ侵略しようとした事例が、その最たるものだろう。ラーデルスからの書状によってその事実を知らされた時、アスランはそこに、テヘスの一族の暗躍を確信した。
ラーデルスとトラヴィス、そしてロヴァンスとの間に禍根を残し、やがて戦へと発展させる。そうしてアスラン達、タゥラの一族の力を削ぐことを目的としたのかもしれない。もしその企みが成功していたならば、アスランにとっては大きな痛手となったはずだ。
これまでの敵の動向を頭に入れながら、アスランはどう動くべきか思案した。敵はいつの間にか水面下で根を張り、その勢力を至る所へと伸ばしている。たかが一部族などと侮っていれば、あっと言う間に足を掬われるだろう。
「厄介な場所だな……ミンドラはあちらの手に落ちたと考えるのが妥当だろう」
「地の利は奴さん側にあるってわけだ。どうします?」
ラーデルス王国の乗っ取りを画策していたような敵だ。既にこの地の部族を掌握していると考えるべきだろう。
(十年前のことを考えれば……おのずと答えは見えてくる……)
「馬を用意しろ。それと例のモノもな──」
「王よ……それは──」
「どちらがこの国の王に相応しいか……思い知らせてやろうじゃないか」
アスランの七色に輝く虹彩が、獰猛な光を灯した。
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──ヒヒィィイン──
「!!」
「……来たな」
遠く馬の嘶きが聞こえる。それを皮切りに静けさに満ちていた夜の峡谷は、一気に緊張の糸が張り詰めた。
アトレーユを連れたイサエルは抜け道を使い、崖の上まで登って来ていた。地の利に明るくなければ、谷底から上まで登るのは至難の業だろう。そうして今、アトレーユ達はそれまで自分達がいた天幕の拠点を見下ろしていた。
──ドドドドドドドッ──
複数の馬が駆ける音が聞こえる。真っ暗な闇の中、聞こえてくるその音のみが、相手のいる場所を知る術だ。
どんどんと近づいてくる蹄の音。そこに何が待ち構えているのかも知らずに、真っすぐに向かってくる。
イサエルが覆いを被せた灯を使って合図を出すと、俄かに周囲の闇が蠢き出した。
「っ──!」
アトレーユは必死にもがいて、向かってくる者達へ危機を伝えようと試みた。だがすぐに腕をきつく締め上げられ、押さえつけられてしまう。
「──大人しくしていろ」
アトレーユを戒めながらもイサエルの目は、獲物を嬲ることへの期待に獰猛な輝きを放っていた。その眼差しを見て確信する。
(これは────罠だ!!)




