2章101話 テヘスの怒り
「殺した?ロヴァンスの花嫁を……?」
「あぁ、正確には俺の命を受けた奴がだがな」
イサエルはそう言ってクツクツと楽し気に当時のことを語る。
「十年前、ロヴァンスとタゥラヴィーシュの間で王族同士の婚姻の話があがった。両国の和平の為にとか、そんな勿体つけたような理由でな」
「王族同士の婚姻……」
十年前と言えば、ロヴァンスとトラヴィスの関係が最も悪化していた時期だ。国境線を争い激しい小競り合いが何度も繰り広げられ、多くの死者が両国の間に出たという。そんな中、和平の為に政略的な縁組の話が出たとしてもおかしくはない。
「まぁ当時のタゥラの王が本当に和平を望んでいたかどうかは……ククク、今考えてもまぁ、ありえないことだがな」
イサエルはそう言って侮蔑の笑みを浮かべた。まるで相手のことを良く知っているかのように。
「当時の国王……アスラン王の父か?」
「あぁ、そうだ。確かアルゴンとか言ったな。あの強欲で愚かな男は」
イサエルは先々代のトラヴィス王アルゴンをそう評した。当時まだ10歳のアトレーユには、トラヴィスの詳しい内政事情はわからない。だがイサエルの言葉を信じるならば、アルゴン王の思惑は和平の為ではなく、他の所にあったのだろう。
「タゥラの者は基本強欲だからな。神の地だかなんだか知らんが、都合よく神の名を出してはそこに住む者達から土地やその矜持を奪う。元々は自分達も土地を追われてやってきたのにだ。ロヴァンスを約束の地と崇めながらも、この砂漠を我が物顔で支配しているのだから質が悪い」
憎々し気にそう語るイサエルの手元で、ぎしりと寝台が軋んだ。
未だ押し倒されたままの形のアトレーユは、その怒りを間近で感じ、身を固くする。だがイサエルはアトレーユのことなど忘れたかのように、滔々とその怒りをぶちまける。それは剥き出しになった彼の本心だ。
「我が一族は長年、タゥラの一族の横暴に耐えてきた。元々が一つ所に留まらずに移動して生活していた民草だから、略奪者達に対抗する術がなかった……我らの祖は、その略奪者の奴隷にされたのだ」
「奴隷……」
アスランが国王となるまでは奴隷制度があったのだと、そうアスラン自身が言っていた。そしてその奴隷というのが、アスラン達、タゥラの一族に土地を奪われたイサエル達の一族だったのだ。
思いもよらぬ話に言葉を失っていると、イサエルがようやっとその存在を思い出したかのように、アトレーユに視線を注ぐ。
「お前は奴隷という者達がどういう扱いを受けるか知っているか?」
さも馬鹿にしたような口調でイサエルが言ったかと思うと、やおら彼はその身を寝台から起こした。そして自らの上着に手をかけたかと思うとあっと言う間にそれを脱ぎ捨て、裸身を晒す。鍛え抜かれ、そして数多くの傷をその身に受けた半身が、アトレーユの前に現れた。
「俺は生まれたその時から、タゥラの奴隷だった。俺の親兄弟たちも皆そうだ。何百年と続くこの忌まわしい偽物の国の歴史で、テヘスの一族はずっとその誇りを虐げられてきたのだ」
そう言ってイサエルは己の左胸に拳をあてる。そこには焼き印のような跡がつけられていた。
「……奴隷の焼き印だ。タゥラの一族の所有物だという忌々しい屈辱の印よ」
「焼き印……」
それは掌に収まるほどの小さなものだが、焼けただれて肉が盛り上がり、はっきりとした印を形作っている。今にも肉の焼けこげる匂いがしてきそうで、アトレーユは思わず眉を顰めた。
「生まれてすぐに体のどこかに所有印の焼きごてを押される。例外はない。奴らにとって奴隷は道具と同じ。息を吸うのさえ奴らの許可がいる」
イサエルの話に言葉を失う。生まれたその瞬間から奴隷として焼き印を押されるような人生。それはアトレーユの想像を絶していた。
「……ふっ……ロヴァンスのお姫様には、想像もできないか?だがな、お前達もあのタゥラの奴らと同じだ。数多くの民草を奴隷に落とした略奪者の一族とな」
「それはっ──」
アトレーユが反論を口にしようとすると、すぐさまイサエルがその大きな掌で口元を押さえつける。怒気を含んだその眼差しに、言葉を発すれば無事では済まされないことを悟った。
「言葉には気を付けろ。そもそも奴隷は、許可なく喋るものではない」
「……っ……」
獰猛で残虐なその性質を少しも隠さずに、イサエルは笑みを浮かべる。その口ぶりはまるでアトレーユが彼の奴隷に成り下がったかのようだ。
「まぁいい……そのまま聞け」
アトレーユが大人しくなったのに満足したのか、イサエルは手を放した。だが未だ跨るようにして身体を押さえつけられているので、身動き一つとれない。獲物を嬲ろうとする獰猛な獣のような眼差しが、アトレーユを見下ろしていた。
「……タゥラの一族のせいで、多くの者達が奴隷に落とされた。奴らは国を統一しただのなんだの言っているが、実質は強制的な支配だ。この地に住まう民のその矜持さえも踏みにじってな」
イサエルの言葉に、アスランの後宮にいた女達の姿が思い出される。各部族から集められた人質の女達。国政をうまく導く為だったとしても、それはイサエルの言う通り、強制的な支配に変わりはないかもしれない。
「だが俺達テヘスの民は、決して忘れない。己の血に宿る一族の矜持を。我らのゆりかごであり棺である土地を取り戻す宿願を」
一族の誇りを語る時、イサエルの語気が強まる。その怒りの中にこそ、彼の生きる理由があるかのように。
「虐げられながらもテヘスは力をつけ、技を磨いた。ただ地べたを這いつくばる無能の奴隷ではなく、剣を握り拳を振るう武を身に着けていったのだ」
「……戦闘奴隷……」
「そうだ。テヘスは狩られる側から狩る側へと移り変わり、奴隷としての地位を上げていった。いつの日か反旗を翻す為に、自分達を虐げてきたタゥラの刃となったのだ」
しばしの沈黙が落ちる──
見上げれば琥珀色の瞳の奥に、時折悲哀の色が揺らめいている。
祖先の代から長きにわたり受け継がれてきた怒りと悲しみの連鎖。それを断ち切ろうと必死にもがく、男の苦悩が垣間見えた気がした。
「……分かり合うことは…………できないのか……?」
アトレーユは、その言葉が相手にどれだけの怒りをもたらすかわかっていながら、聞くのを止めることができなかった。
ただ単に一方を悪だと決めつけることができたら、どれだけ単純で楽だろう。
だが人間はそんなに簡単なものではない。自らの譲れない正義を掲げることは、時に別の正義を持つ相手を傷つけることになるのだ。
振りかざしたその正義は、大きく巨大であるほど血と争いを生むだろう。それをどんなに美辞麗句で飾ったとしても、血生臭い歴史が刻まれることに変わりはないのだ。
「分かり合う……か……ククク……ははははは!」
アトレーユの予想に反して、イサエルは怒りを露わにするどころか笑いだした。自分達は決して相いれないのだと。そしてそれを他者は到底理解できないのだとでも言うように。
「甘い……甘いなぁロヴァンスの騎士よ。だからこそお前達は十年前に失ったのだ。だがタゥラを欺こうとしたその残酷な選択だけは慧眼だったと言えよう」
「一体何のことを──」
「さぁ、お喋りはもう終わりだ、ロヴァンスの花嫁よ。十年前の花嫁は死の旅路を逝ったが、お前は生きてその身をテヘスに捧ぐのだ。タゥラの血を滅ぼす為に」
残忍な笑みを浮かべた砂漠の鷹が、花嫁を蹂躙せんとその身を傾ける。軋む寝台の音が、悲鳴のように暗闇の中響いた──




