2章99話 残酷な真実
「この国の主?──どういうことだ?」
アトレーユは怯むことなく、目の前の男──イサエルに向かって問う。男の言うこの国とはトラヴィス王国のことだろう。だが現国王はアスランのはずだ。
アトレーユの質問にイサエルはどこか含みのある笑みを深めると、縛られたままのその手を取る。大きくて固い傷だらけの指が、深い闇の底に誘うかのようにアトレーユを導いた。
「お前のその勇気に免じて、昔語りを聞かせてやろう。この国の成り立ちというものを──」
イサエルは絨毯の上に座ると、アトレーユも自身の横に座らせた。手酌で盃に琥珀色の液体を注ぎ、くい──とまずは一杯、喉を潤してから口を開き、朗々たる詩を詠う。
始めに大地の女神がそこに種を撒いた
豊かな水は男神がもたらした
そこにタゥラが生まれた
タゥラはやがて王となり
その地を治めることを神々に許された
偉大なるタゥラヴィーシュ
約束された地
神々に守られし地
それは以前アスランから聞いた詩だ。この国に根付いている信仰というものをよく表している。
「さて、この始まりの大地、約束の地とは一体どこのことかわかるか?」
イサエルが悪戯っぽい顔をして、すぐ横のアトレーユに問う。その琥珀の瞳は試すかのように妖しい光を放っている。
「どこって……トラヴィスとはこの国のことだろう?」
イサエルが何を言わんとしているのか分からず、戸惑いがそのまま言葉に現れてしまう。そんなアトレーユに、イサエルはクツクツとおかしそうに笑った。
「奴からそう聞いたのか?ククク……滑稽なものよ……」
イサエルは機嫌良さそうに手に持った盃を再び酒で満たすと、今度はアトレーユの口元へと寄せた。
「飲め。素面ではつまらんだろう」
強引に杯を押し付けられて、僅かに開いた唇の上を琥珀の液体が流れ落ちる。喉を焼くような強い酒精に思わずむせてしまった。
しかしイサエルは気遣う様子もなく、次の酒を注いでいく。
「これはかつてのタゥラヴィーシュの土地で生まれたという酒だ……今はこの国の北方の地でその元となる実が作られている。どうだ?覚えがある味だろう?」
焼け付くように強い酒。しかしよく熟成されたその味は、琥珀色の見た目と同じようにまろやかで芳醇な香りを放っている。それはロヴァンス王国でもよく口にした酒の味に似ていた。
アトレーユの複雑な表情に満足気に頷くと、イサエルは話の続きを始める。
「そうだ、この酒はお前達の国、ロヴァンスの地で生まれたものだ──それがどういうことだかわかるか?」
イサエルはアトレーユの前に残酷な真実を突き付けようとしていた。
「お前たちの国──ロヴァンスの地を、長年この国の王家が攻め取ろうとしてきたのは何故なのか──」
イサエルの手がアトレーユの顎を捕らえ、俯くその顔を上に向かせた。鷹のような目が、アトレーユの美しい紫の瞳を射抜く。
「今お前達がロヴァンスと呼ぶ地こそが──この国の者達が昔からタゥラヴィーシュ、約束の地と崇めていた土地だからだ」
「っ──それは……!」
「違うと言い切れるのか?自分達ロヴァンスの一族の祖がどこから来たのかも知らぬわけではなかろう?」
イサエルの有無を言わせぬ温度の無いその言葉に、何も言い返せずに唇を噛む。
確かにロヴァンス王国の祖とされる人々は、遥か昔に北方の地からやってきたと言い伝えられていた。元々は別の土地に住んでいたのだ。それはロヴァンスの民なら誰でも、国の成り立ちの物語として広く知られていることだ。
だがトラヴィスの人々が今のロヴァンスの地に住んでいたという話は言い伝えられていない。自分達がやってきたその土地に、誰か他の者達がいたなどとは想像もしていなかった。
「真実というものは時に残酷だ──自らが正しいと信じているならば尚更、その信念が真実の前に覆された時、お前達の正義は砂の城のように脆く崩れ去る」
イサエルは顔に添えていた手を乱暴に離し、アトレーユの身体を床に打ち捨てた。
「だが問題はそれだけではない──ロヴァンスの者どもが、タゥラの民達を南の地に追いやった事で、今度は別の者達が苦難を強いられた」
イサエルは荒っぽく一気に残っていた酒を煽ると、忌々し気に言い捨てる。
「我が一族の祖は、代々この広い砂漠や荒野を転々として生きてきた。この地は我々にとって、ゆりかごであり、棺であるのだ。だがこの地にやってきたタゥラの者達が、その我々の矜持を奪った──」
──バキンッ!──
歪な音が響いたかと思うと、イサエルの手の中で杯が割れていた。破片と共に赤い雫が絨毯の上に落ちていく。
イサエルは立ち上がると、床に倒れ伏すアトレーユに冷たい視線を向ける。
「この国の本当の王はあのアスランという男ではない。お前は騙されている事も知らずにこの地へとやってきたのだ」
イサエルやトラヴィスの者達が自分達に向ける激しい憎悪。その根源が何であるのか、アトレーユはようやく理解した。
ロヴァンスの祖先がトラヴィスの土地を奪い、別の地に追いやられたトラヴィスの民達がイサエルの祖先の土地を奪った。奪われた者達は決してその歴史を忘れはしない。その一方で奪った側は奪われた者の事など、歴史の波間に打ち捨て忘れていくのだ。
奪う者と奪われる者──
長い時を経てして尚その溝は深く、両者が相容れることは決して無い。それは連綿と受け継がれていく悲劇の連鎖であった。
「……私はロヴァンスの王族ではない。だからこの命に国を動かすほどの価値は無い。私を捕らえたとしても無駄だ」
アトレーユは床に伏しながらも、顔を上げイサエルの言葉に負けじと強い眼差しを向けた。しかしイサエルはそんなアトレーユの言葉を嘲笑うかのように、口元を歪める。
「ククク……偉そうに他人の土地でふんぞり返っている割に、お前の一族は愚かだな」
「何が言いたい──」
アトレーユが睨みつけると、再びイサエルはしゃがみこみ、その顔を近づけてきた。
「お前達がどう思おうと我々にとってその血は重要ではない。約束の地を今現在治めているお前達が、自分達の代表として遣わした花嫁、それがお前だ」
「約束の地……」
「地を司るのは女神──その土地を治める者の花嫁を手に入れるという事は、その地を支配する事と同じ意味を持つ。約束の地の花嫁──それはタゥラの女神を信仰する者達にとっての悲願なんだよ」
血に塗れたイサエルの指が、アトレーユの白い頬を撫でる。まっさらで無垢な乙女の純潔を穢すように、深い憎悪の歴史をそこに刻む。
「私を手に入れたとしても……この国がお前のものになるとは思えない」
嫌悪と侮蔑を込めてアトレーユは必死に睨みつける。しかしそれはイサエルの笑みを深めるだけだった。
「そうだな。だから前と同じように殺しても良かったんだが──あの男の息子が……アスランがお前に執着していると伝え聞いて、奪ってやったらさぞ面白いだろうと思った。盗人どもの子孫であるタゥラの一族の長が、約束の地の花嫁をこの俺に盗まれるのさ……ククク」
「……」
アトレーユが難しい顔をして沈黙したことに、イサエルは別の事を思ったようで、勝ち誇ったような笑みを向ける。
「ロヴァンスの花嫁というのは都合がいい存在だ。女神の福音をもたらす象徴の花嫁は、今や血族の違いを越えてこの国に浸透しつつある迷信だからな。お前自身が何者であろうとロヴァンスの花嫁である限り、この地でお前は担ぎ上げられるのさ」
イサエルはそう言うと護衛を呼びつけ、アトレーユを連れていくよう命じる。
護衛に強引に立たされ引きずられるようにして天幕を後にする。その背へ向けてイサエルが最後の言葉を掛けた。
「この国の王の花嫁になる女だ。それに相応しい準備をさせろ。手を出すような愚かな輩がいたら……殺せ」
刃のように鋭いその言葉は夜の闇に冷たく響いた──




