2章98話 もう一人の王
天幕の外にある松明の灯りが、中を微かに照らしていた。
アトレーユは、やって来た黒装束の男に、腕の拘束はそのままに、足の拘束だけを外されていた。
「歩け」
「……」
アトレーユは大人しく男の指図するままに歩き出し、その後をついていく。しかし一時も無駄にしないようにと、男には気づかれぬように視線を巡らした。少しでもこの場所の情報を得る為だ。
鎖で繋がれた腕を引かれながら天幕の外へ出ると、そこは漆黒の闇に包まれていた。高い岩場が周囲を囲い、その隙間から僅かに星の光が見える。月は見えない位置にあるのだろう。おかげで自分がどの方角へやって来たのかもわからない状態だ。
だがごつごつとした岩場が続くその光景は、アスランと共に王都ヴィシュテールまでの旅路をした時には見た事の無いものだった。その事から、王都よりかなりの距離を来たのではないかとアトレーユは予想していた。
そんな荒れた土地に、天幕がいくつか張ってある。夜の闇の中、全てを見渡せたわけではないが、多くの人の気配があるのがわかった。
「こっちだ。入れ」
指図されて天幕の一つへと入ると、揺らめく灯が人影を色濃くその場に映していた。
「……お前がロヴァンスの花嫁か」
低く闇の底から迫ってくるような声。ぞくりと肌が粟立つのを感じながら、アトレーユは目の前の人物と対峙した。
鋭い琥珀色の目は、まるで獰猛な鷹のよう。四十半ばほどのやせ型で、緩く波打つ長い黒髪は、男の底知れぬ闇を思わせる。血のような赤い布地に、黒の不思議な文様が入ったゆったりとした服を纏い、自信に溢れた様子で、大きな長枕に身を預け寛いでいる。
その男はアトレーユの腕を掴んでいる男に視線で合図をすると、後ろへと下がらせた。そしてアトレーユへと再び鋭い眼差しを向け口を開く。
「名を何という?」
「……ティアンナ」
名を問われて、少しだけ考えてから答えた。ここで嘘を吐いたとしても、すぐにばれるだろう。あの“レーン”が彼等の仲間なのだから。
「ふむ……確かに本物のようだな」
男はその答えに満足し、アトレーユの全身をつぶさに観察する。
その視線に居心地の悪さを感じながらも、アトレーユは目の前の人物が何者であるかを必死に考えた。しかしその思考は男の発言によってすぐに中断される。
「大人しくその身を預けていれば、命を奪うことはしない。だが──」
視線が一層険しくなったかと思うと、男はアトレーユの後ろにいる見張り役の男に合図する。
「隠し持った武器が無いか調べろ」
「はっ!」
すぐさまその見張りの男がアトレーユの身体を調べようと近づく。危険を感じて咄嗟に男から身を離そうとするが、縛られている腕を掴まれ強い力でうつ伏せに床に押さえつけられた。
「大人しくしろ!」
「ぐっ……」
男の体重がアトレーユの華奢な身体にのしかかる。
苦しさに顔を歪めると、ごつごつとした大きな手が、身体をまさぐり始めた。
「やめっ……!」
必死に身を捩って抵抗するが、縛られ押さえつけられた状態で敵うはずもない。武器など持ってはいないが、相手はアトレーユが騎士であることを知っているのだろう。見逃さないとばかりに、執拗に身体を触られた。
そしてついには裾をまくられ、真っ白な太ももが露わになる。
「っ──」
アトレーユは羞恥と怒りに震え、己の女性としての無力さを痛感した。
「……ふむ、隠し持ってはいないようだな……」
それまでのやり取りを見ていた男が立ち上がり、床に押さえつけられたままのアトレーユの前へしゃがみこむ。
そしてやおら腰に差していた短刃を抜くと、それを怒りに燃えるアトレーユの顔へと突き付けた。
「最初に、お前の命がこの俺の手の中にある事を理解しておいてもらおう。無駄な抵抗をすれば、すぐさまこの刃がお前を切り裂く。お前も自分の美しい顔に傷をつけたくないだろう?」
男が短刀を突きつけながら顔を近づけ不敵に笑う。
だがアトレーユの心は、その脅しに屈することは無かった。彼女は暴力に怯えるただの女ではない。誇り高き騎士だ。
目の前に迫る切っ先に怯むことなく、敵の真実を暴こうと真っ直ぐに相手を見据えた。
「お前達は……一体何者なんだ」
アトレーユはこの人物こそが、敵の頭だと確信していた。地下闘技場を襲い、その混乱に乗じて、自分をこの場まで連れ去った。その真意はなんなのか。
「……怯えて泣くだけのか弱い女ではないようだな…………いいだろう」
男はアトレーユの強い心に感心したのか、短刀を引き戻し立ち上がると、見張りの男に開放するよう合図した。
そして自らの手で、アトレーユの腕を取り立ち上がらせると、ついにその名を口にした。
「俺がこの国の真の主、イサエルだ」
鋭い鷹の眼差しが、揺らめく灯を映し妖しく光った──




