2章95話 その胸に去来する想い
アスランは目を開き窓の外──王宮の下を流れる河を静かに見つめた。昼は翡翠色の美しい水面が輝きを見せるが、夜である今は闇の色を纏い、時々月の光を妖しく映すのみだ。
目を閉じれば、母が死んだあの日の出来事が今でもまざまざと思い出される。生き延びる為に必死でもがいた、その痛みと苦しみまでも呼び起こして。
その手で兄を殺し、王座に就いたあの日。アスランは、民の為ではなく母の為にその仇を討った。
あれから既に6年もの歳月が過ぎ去った。疲弊した国を何とか立て直し、分裂する国をまとめあげ、砂漠の街を潤していったのだ。
だがどれだけの時が過ぎ、国が栄えようとも、今でも彼はあの日の夢を見るのだ。自分を庇い死んでいった母の夢を。
悪夢の中で繰り返される母の死──それはアスランの心に深い闇を落としていた。だがここ最近では夢に出てくる母の姿は、何故か別の人物の姿となっていた。
「ティアンナ……」
彼自身の恐れがそうさせるのだろうか。
彼女を愛しく思えば思うほど、失いたくないと思ってしまう。
悲しい運命を背負わされて異国の地へとやってきた、母と同じロヴァンスの女──
記憶の中で、母に斬りかかる兄サウルヴァスの姿は、いつしか今の自分の姿と重なっていく。
そして最期は真っ赤な血に染まったティアンナが、永遠に彼の手の届かない所へと行ってしまうのだ。
「──俺は──間違ってはいない……」
脳裏に浮かんだ悍ましい幻をアスランは必死に掻き消す。それが現実のものになってしまうのではという恐怖。
しかしどんな犠牲を強いてでも、成し遂げるべきものがある。それらがアスランの中でせめぎ合っていた。
「そうだ──間違ってはいない──俺は、俺自身の為に……」
沈痛な呟きは、幼い彼の思い出と共に、黒い水面に深く沈んでいった──
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アスランの部屋から退室したシュウランは、人気の無い王宮の廊下で一人、深いため息を吐いた。
アスランと出会ってから10年。自らの目的の為と、アスランの王者としての資質に惚れこみ、ここまでの道のりを歩んできた。
シュウランが、親から受け継いだ名を捨て祖国を去ったのは、一重にある大願の為であった。そしてようやく長年の苦労が報われる所まで漕ぎつけたのだ。
しかし、その先を見据えるはずの王は、ロヴァンスの花嫁にどうやら心を奪われているようである。その事が、シュウランの凍てついた心を俄かに騒めかしていた。
「……ロヴァンスの……ましてやポワーグシャーの娘など……」
10年前のあの日の絶望と怒りが、シュウランの中に再び嵐を巻き起こす。アスランの前では平静を装っていたが、それもうまくできていたとは言えないだろう。あの七色の瞳には、相手の真実を見抜く力があるように思えた。
シュウランは再びため息を吐くと、少しずれてしまった銀の仮面を直し、再び歩き出す。
時はもう戻れぬところまで動き出している。立ち止まっていては、あっという間に歴史の波間に沈んで消えていってしまうだろう。どんなに苦しくとも、必死にもがいて進み続けなければいけないのだ。
「あと少しだ……あと少しで……」
非情な男が見せた密かなる大願への希望が、砂漠の王宮の闇に消えていった。




