2章91話 王者の見る夢 4 ~生者と死者~
少年が全てを失ってから四年の月日が流れた。
王宮で暮らしていた頃の華奢で幼かった少年は、今や貧民街で逞しく暮らす一人の青年へと成長していた。
「アッシュ、次はお前の出番だ。しっかりやれよ!」
顔や体に傷のある男が、大口を開けて笑いながら、バンバンと青年の背中を叩いて気合いを入れる。青年は男の気合いを受けて、その七色に輝く瞳を鋭くしながら、自身の戦場へと向かった。
その手には妖しく鈍色の光を放つ一振りの刀。袖の無い草色の衣を纏い、金の混じる髪色を隠す為に衣と一続きの頭巾を目深に被る。青年はアッシュと名前を変え、その場所で生きる糧を得ていた。
血とうめき声で溢れた暗い廊下を抜けて、光と歓声の沸く中へと進み出る。地下に作られた円形の広場。地下と言っても格子状に張り巡らされた天井からは光が差し込み、その奥には空が見える。周囲には客席が設けられ、既に多くの人間がそこを埋め尽くしていた。
青年がその広場中央へと足を進めると、一際大きな歓声と野次が飛ぶ。そこは地下闘技場。数多の奴隷、犯罪者、一攫千金を夢見る者達が、その命を散らした最底辺の場所である。
「アッシュ!お前に賭けてやってんだ!絶対に勝てよーっ!!」
「ここはガキのお遊戯場じゃねぇんだ!引っ込めー!!」
欲望と狂乱の渦巻く地下世界。青年はそんな周囲の人間達の思惑などに、心を惑わされることは無かった。
彼が見据えるのは、目の前の敵のみ。生き延びる為に殺す──ただそれだけだ。
敵は多くの人間をこの場所で屠ってきた歴戦の猛者。白いものの混じった黒い巻き髪は、後ろで一括りにされ、その太い首筋から垂れている。青年よりも一回りも大きく、己の肉体を誇示するかのように、上半身には胸当てだけを身に着け、腕には太い鎖を巻いている。青年を上から見下ろし、その傷だらけの顔には、嘲笑と勝利への確信を浮かべていた。
両者が中央へと着くと、進行役の男が客席の中央に設けられた場所で銅鑼を鳴らす──死闘への合図だ。
敵の大男が下卑た笑みを浮かべながら近づく。
「へへ……今日は楽すぎて運動不足になっちまうな……」
既に勝ったような物言いだ。しかしそんな嘲りにも、青年は顔色ひとつ変えない。全く動じる様子のない青年に、敵はそれを怯えて動けないのだと判断した。
腕を前に出すと、手のひらを上に向け、指をくいっと何度か自分の方へ向ける。
「可哀そうなお前にハンデをやる。どっからでもかかってこい!」
両腕を広げて無防備な態勢を取る大男。
しかし次の瞬間には、鎖を巻き付けた腕が、ジャラリと大きな音を立てて地面に落ちていた。
「──っ?!」
男は一瞬何が起こったのか分からないと言った様子で、青年を見た──しかし──
「うぎゃぁああぁぁあ!」
すぐさま強烈な痛みと共に、地面に血しぶきが舞う。男の肘から先が見事に斬り落とされていた。
──ビュッ──
痛みに悶える間もなく、青年の刃についた血が弧を描き、更なる赤をその切っ先に生み出す。今度は男の腹部から鮮血が噴き出した。
「がはっ……!」
大きな音と土埃を舞わせ、男の巨躯が倒れた。もはや成す術も無く倒れ伏すその男に、青年は血の滴る切っ先を向ける。
「殺せー!!」
「負け犬には死を!!」
更なる血の惨劇を観客は求めた。人間の浅ましい欲望がそこには渦巻いていた。それに応えるようにして、青年は天高く剣を振りかざす。
嘲笑と勝利への確信を浮かべていた男は、今は自身の死への恐怖によって顔を歪めている。
青年はその表情に、何も感じない──いや感じない様にしていた。
足元には真っ赤な血と、それを覆い隠すように落ちる自身の影。格子の天井からは、地上の光が二人を照らし出していた。
生き残る者と、死んでいく者──
僅かな油断が死を呼び込む。負けた者は己の血を闘技場に捧げ、欲望の城の礎となっていく。
生というただ一つの欲望に囚われた青年の姿を、地上の陽の光と地下の暗黒の闇がはっきりと映し出していた。
非情なる刃がついに振り下ろされ、血と肉と共に男の生命が闘技場に捧げられた。一気に歓声と罵声が入り乱れ、狂ったように場内が沸きあがる。
男の断末魔の叫びさえも飲み込んで──




