2章89話 王者の見る夢 2 ~死をもたらす梟~
カザ砦はロヴァンス王国の南端に位置し、隣国タゥラヴィーシュとの国境である山がすぐ目の前にある。
少年の父王の思惑の通りに、長年敵対していたロヴァンス王国とタゥラヴィーシュとの和平交渉が、この砦にて行われることになっていた──しかし──
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刹那の閃光と共に、真っ赤な鮮血がほとばしる。
そこに集まった者達は声にならない悲鳴を上げ、目の前の惨状に愕然とするしかなかった。
血だまりの中に息絶えて横たわる少女。
傍らには衣を目深に被った、梟のような目をした小柄な男──
少女の胸を貫いたその両の手にある刃は、いまだ鮮血を滴らせている。
不気味なほどの静寂──
誰もがその男の持つ異様な雰囲気にのまれ、己の息を殺し、動くことができずにいる。
ピチャ……
滴る血の落ちる音だけが、その場にやけに響いた。
しばらくの後、ようやくこの状況に思考が追いついた一人の騎士が叫ぶ。
「陛下をすぐ外へ!!命に代えてもお守りしろ!!」
その叫びに意識を取り戻したロヴァンスの騎士達は、すぐさま自国の王ウラネスをその惨劇の部屋から連れ出した。
しかしもう一国の王、アルゴンは違っていた。
腰から剣を抜き、部屋の中央に立つ梟の男を罵声と共に睨みつける。
「貴様……!余の邪魔をしおって……!」
しかし怒りに任せて振りかざしたその刃は、次の瞬間には手をすり抜け、床の上に虚しい音を立てる。喉から血を噴き上げながら、アルゴンは崩れ落ちた。
「父上っ!!」
少年は倒れた父親に駆け寄るが、既に物言わぬ屍となったアルゴンが、息子の想いに応えることは無かった。
少年の父を殺した襲撃者は、斬りかかってきた他の騎士達をも一太刀で斬り伏せる。そこは凄惨な戦場と化していた。
「何故……」
少年の呟きは、剣戟と断末魔の悲鳴とに掻き消されていく。
父の流した赤い血だまりに映るのは、故郷に残してきた母の姿──
少年はその手に父親の剣を握りしめ、そして立ち上がる。震える足を叱咤して、切っ先を前へと向けた。
これは父の仇を討つ為の戦いではない。自分自身が生き残るための戦いだ。
一歩ずつ足を踏み出すと、ぬるりと纏わりつく生暖かな血と肉の感触。生々しい匂いに、吐き気が込み上げてくる。おびただしい数の死がそこには広がっていた。
部屋を埋め尽くす死体を踏み越え、少年は出口へと向かうが──
「あ……」
少年の目の前には、背を向けた襲撃者の姿。
襲撃者は気配を感じて、少年に振り返る。真っ赤に染まった外套の下に、ぎょろりとした大きな目。その梟のような目が、少年の姿を真っ直ぐに捉えていた。
死をもたらす虚ろな闇──その闇の目に射抜かれて、少年は動くことは叶わなかった。
ひゅっと空気が揺らいだかと思うと、刹那、激しい金属音が目の前に散った。
──ギンッ!──
「くっ……!!……逃げろっ……」
一人のロヴァンスの騎士が、間に立ちはだかっていた。
長い白髪をなびかせた高年の騎士。麗しい見た目とは裏腹に、数々の死線を潜り抜けてきたような気迫。激しい剣戟の音を立てて、その騎士の剣は襲撃者の刃をも防いだ。
「何をしているっ!早く行きなさい!」
少年を庇うように、騎士は襲撃者をひきつける。
幾度もその刃を弾き、相手にもいくつかの傷を与えていた。
「バスチアン様!大丈夫ですか!」
入り口から若い騎士が、白髪の騎士の名を叫び入ってきた。部屋の惨状を目の当たりにして、険しい表情となる。バスチアンと呼ばれた老騎士は、希望の光明をそこに見出した。
「シーランド!私はいいからその子を……」
少年を生かす為、白髪の騎士はやってきた若い騎士にその命を託す。しかしその一瞬の隙を突かれた。
鋭い一閃──襲撃者の刃が、バスチアンと呼ばれた老騎士の腹を裂く。
「ぐっ……」
瞬時に身を引いたが避けきれず、服の下から鮮血が滲みだす。
襲撃者は相手が一撃で死ななかったことに、僅かに驚き、立ち止まって首を傾げた。その一瞬の隙を白髪の騎士が見逃すはずもなく、渾身の反撃を繰り出す。
「この俺も、随分と舐められたものだっ!」
血を吐きながらも、老騎士の口元には凄絶な笑みが浮かんでいる。繰り出したその一撃は敵の肩を掠め、その肉を裂いた。
「っ──」
それまで数多くの死をもたらしてきた虚ろな死神に、初めて感情の揺らぎのようなものが混じる。よろりと一歩後ずさると、襲撃者は血に染まった外套を翻して向きを変える。
「シーランド!!」
襲撃者が少年たちの方へと向かったのを見て、白髪の老騎士が若い騎士の名を叫んだ。
「っ!!」
シーランドと呼ばれた男がすぐさま反応する。
狭い入り口付近で敵との遭遇。
虚ろな闇が、再び死の影を落とし始めた。
──ガッ!!──
敵の初手を少年を背に庇い防ぐが、しかし──
「ぐあぁぁっ!」
肉を裂くための梟の爪は、ひとつではない。防いだのとは反対の刃──二刀の内の一刀が若い騎士の足を貫いていた。それが引き抜かれると同時に、一気に血が溢れだす。
次はお前だと言わんばかりのおぞましい目に射抜かれて、少年の心が絶望の色に染まるが──
「シーランド!」
その名を呼びながら、老騎士が身を挺して、再び死神の次の一手を防ぐ。
激しい攻防が再び二人の間で繰り広げられる。歴戦の騎士は、自身も瀕死の重傷を負いながら、決死の覚悟で挑んでいた。
命を燃やすようなその剣に、次第に死神も追い詰められていく。流れる血をその手で押さえながら、じりじりと後ずさる。
騎士達に勝利の光が見えてきたその時──
「っ──!!」
梟は窓に手を掛け、空へと自身の体を躍らせた。しまったと思った次の瞬間には、梟は砦の遥か下、谷底に堕ちていった。
襲撃者の生死はわからない。だが少年は生き延びた。
しかし和平の礎となるはずだったカザ砦には、多くの人間の血が流れたのだ──




