2章85話 襲撃の結末
「ティアンナ!くそっ!!」
ラスティグは、握りこぶしを思い切り水面に向かって叩きつけた。バシャンと虚しい音が響いて、水面に歪な波紋を作る。
水上闘技場でティアンナとはぐれ、その後を追いかけて水流の中に自ら身を投じたラスティグだったが、たどり着いた先にティアンナの姿は無かった。
狭い水路を流されてきたのだが、いくつか途中で枝分かれしていたのかもしれない。それに気が付かず、せっかく助け出したはずのティアンナの姿を見失うなど、自分が許せなかった。
「……戻る事は……到底できないな……」
自分が落ちてきた場所を睨みつけ呟く。しかしいくら枝分かれした水路だといえ、きっとどこかで繋がっているはずだ。ましてやティアンナの事だから、そのままじっとしておらず、自ら動いて人のいる場所を目指すだろう。
ラスティグはそう考えて、水路を暫く泳ぎ、通路に上がれる場所を見つけてそこから這い上がった。
黒いトラヴィスの衣装は水を吸ってとても重たく、全身を覆うそれはすぐさま脱ぎ捨てた。身に着けているのは下に着ていた薄手のシャツとズボン、そして剣のみだ。
身軽になった体で、通路をひた走る。向かう方向は勘でしかないが、このままじっとしていられるわけがない。そうして暫く走っていると、薄暗い通路の先に僅かな灯りが見えた。
「っ──」
ラスティグはすぐに立ち止まり、息を殺した。灯りの中に、僅かに人影が見えた気がしたのだ。まだだいぶ遠いので、向こうからこちらは見えていないだろう。
ラスティグは足音を立てないように、慎重にその歩みを進めた。
やがてはっきりとその灯りが見え、その中に何人かの人物を見つける事が出来た。
止まってじっと耳を澄ませば、狭い通路に反響して、離れた場所でも彼等の会話を耳にする事ができる。ラスティグは彼等の言葉に注意深く耳を傾けた。
「ティアンナが捕まったか……」
「へぇ、予定とは違いましたが、直接あいつらが連れて行ったようです。こっちはあぶねぇ所を姫さんに助けられたようなもんでさぁ」
「……その事はもういい。監視の者をつけられなかったのが悔やまれるが……ルシュケのあの男は死んだのか?」
「えぇ、そりゃぁもうバッサリですわ。あの鞭使いの女、手加減なんてぇもん知らねぇみたいだ。危うくこっちが死ぬとこでしたぜ」
「ルシュケの男を使ってティアンナを連れて行こうとしたのがバレていたのか……何にしても、奴らが向かう先にあの男がいるはずだ。気づかれぬように跡を追わねば……」
「もう他のもんがいってまさぁ。俺は面が割れちまったからいけねぇが、既に待機していたやつらが、陸からも水上からも追ってるんで、今度こそは大丈夫じゃねぇかと」
「……だといいがな……鷹は目も耳も良い。気取られないとも限らない」
「へい、肝に銘じます。して、この後はいかがなせぇますかい?」
「場所が分かり次第、出陣だ。今度こそ奴らの息の根を止める。それこそが私の悲願だからな。……影の者達にも用意をさせておけ」
「おおせのままに……」
話を終えると、男達はその場からいなくなったようだ。だがラスティグは暫くの間その場から動けなかった。今しがた聞いた会話の内容に驚いただけではない。例えようの無い怒りがこみあげてきていた。
「ティアンナを囮に使ったのか……!」
思わず壁に拳を叩きつけようとして、寸での所でそれを止めた。そのまま握りしめた拳を震わせて、無理やりにでも下へ降ろす。そうでもしなければ、怒りで無茶苦茶にその辺りを殴りつけてしまいそうだった。
会話をしていたのは、トラヴィスの国王アスランと、その侍従の男だろう。彼等はティアンナが敵の手に落ちるように、わざとこの闘技場にやって来たのだ。そして計画とは少し違う形で、彼等の目的は達せられた──そう言うことだろう。
だがそれによってティアンナは傷つき、何者か分からない敵に攫われたのだ。いくらそれが彼等の真の目的の為だといえ、許せるはずがない。
ラスティグは黒い怒りの炎を胸に灯しながら、地下通路の出口を目指した。
****************
一方その頃──
「皆無事か!?」
「私達は大丈夫です!エド兄さま」
「こちらも怪我人はおりません、エドワード様!」
「……そうか、何とか無事に抜けれたようだな」
エドワードは全員の無事を確認し、ようやく構えていた剣を鞘に納めた。
観客席で大勢のならず者たちに襲われたエドワード一行であったが、向かって来た敵のほとんどを返り討ちにしていた。
一人の怪我もなく、危機を脱したことにひとまずの安堵を得るが、未だ会場は混乱の中だ。
「さてどうしたものか……」
思わぬ戦闘によりかなりの時間を足止めされていたが、未だ出入り口付近は逃げ惑う客たちでごった返している。
また足元には、襲撃してきたならず者たちの何人かが血を流して転がっている。命に係わるような傷を負わせてはいないが、それでも戦闘が出来なくなるくらいには痛めつけてあった。
「こいつらこのままにしておきますか?」
護衛の一人が、転がるならず者を足でつつきながらエドワードに問う。
「できればトラヴィスの兵士に引き渡したいところだが……今は出張ってて見当たらないな……」
状況を説明しようにも、闘技場自体が襲撃されていた為、兵士達は皆、襲撃者の方へ行っているようだ。近くには見えない。
「結局アスラン王は戻ってきませんでしたね……」
護衛の一人が眉を顰めて呟いた。エドワードも同じく渋い表情を返す。
「……王自身が狙われていたからな。既に安全な場所へ移動したのだろう。我々もこのままチャンセラー商会へと戻ろう」
「エド兄さま!でもっ!ティアンナ姉さまがまだ……!」
安全の為、闘技場を後にしようとするエドワードに対し、フランシーヌとミスティリアの双子は、姉であるティアンナの無事が確認するまではと、この場から離れる事を嫌がった。
そんな双子達に対し、エドワードはその肩を抱き、安心させるような優しい声音で告げる。
「大丈夫だ。お前たちの姉君は、きっと無事でいる。今は彼女が安心できるように、お前達自身も安全な場所へ行こう。ティアンナを安心させてやりたいだろう?」
「……はい」
自分達が足手まといにしかならないと分かっているのだろう。双子達はエドワードの言葉に残念そうにしながらも頷いた。
いくら危機を脱したとはいえ、このまま同じ場所に留まっていては、更なる危険に巻き込まれないとも限らない。
「……わかりました。ごめんなさい、エド兄さま。我が儘を言って……」
「大丈夫だ。姉を心配した上での我が儘なんて、可愛いもんじゃないか」
エドワードが、少しおどけた様子で微笑む。背の高い彼が優しい眼差しで見下ろす様は、まるで温かな太陽のようだと双子達は思った。
そんなやり取りの側で、護衛の一人が心配そうに仲間の不在について確認する。
「エドワード様、ユリウスと騎士団長はどうされますか?」
「……今は双子達を安全な場所に連れていくのが優先だ。彼等は放っておいても問題ない。きっとティアンナ嬢の為に動いているのだろう」
エドワードは僅かにその表情を歪めながらも、揺るぎない信頼の下にそう言った。
未だユリウスは戻って来てはいない。トラヴィスの兵に紛れて潜入していたラスティグもしかりだ。
だが今は彼等の安否を気にしている場合ではなかった。何かが大きく動き始めている。そしてその只中に自分達はいるのだと、エドワードは感じていた。
「先にチャンセラー商会へ向かう。もう一人のポワーグシャーのご令嬢に助力を願おう」
「はっ!」




