2章84話 離別
「ティアンナ、大丈夫か?」
「あぁ……大丈夫……まだ泳げる」
ラスティグに窮地を救われたティアンナは、その腕に支えられながらも、水没した闘技場を、その端に向かって泳いでいた。
最初に水に落ちた場所は闘技場の中央だったが、ラスティグが助けに来た時には既にかなり場所を移動していた。そのおかげもあってか、どうやら敵の目をかいくぐる事が出来たようだ。
息を継ぐ為だけに水上へ顔を出し、なるべく見つからない様に潜って移動をする。既にかなり体力を消耗していたが、ラスティグの支えもあって何とか泳ぐことができていた。
だが闘技場の端までもう少しの所まで来た時、ラスティグがとある異変に気付いた。
「……水に流れができている?」
その言葉に視線を向ければ、確かに水に大きな流れができているようだった。闘技場の中に溜められた水である為、川のような流れがあるのはおかしい。どういうことかと周囲を見回していると、突然ラスティグが慌てたように言った。
「水を抜いているのか……!」
元々普通の闘技場だったところに水を流したのだ。だとすれば排水機能も当然のことながらついているのだろう。言われてみれば先ほどよりも水位が下がってきているようだ。
「このままだと……流されるっ!」
ラスティグが叫んだと同時に、急激な水の流れが彼等を襲った。
「ティアンナっ!!」
「ラスティグ!」
排水用の穴が近いのだろう。あっという間にラスティグと引き離されると、ティアンナはそのまま水の中に引きずり込まれていった──
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「う……げほっ……ぐっ……」
水流に飲みこまれ、狭く暗い水路を流された後、ティアンナはようやく浮上する事ができた。どうやら岸が近かったようで、手探りで辺りを探せば、地面と思われる場所に手をつくことができた。
重い体を叱咤して、何とか上に這い上がる。周囲は薄暗いが、洞窟のように続く水路の先に灯りがあるのだろう。薄っすらとその内部が見えていた。
「はぁっ……はぁっ……」
水を吸って重くなった衣を引きずり、何とか這い上がりその通路に倒れ込む。身体が凍えるように冷えていたが、それをさすることも出来ないほどにティアンナは体力を消耗していた。
暫くはそのまま岸辺に倒れ込んでいたのだが、やがて一緒にいたはずのラスティグの事が気にかかり、疲れた体に鞭打って半身を起こす。
自分が這いあがって来た水路の先を見つめるが、その水面に望む人影は見えなかった。流れている時は気づかなかったが、水路の中が入り組んでいたのかもしれない。ラスティグのことだから自分を追ってきているだろうが、それでも姿が見えない事に、不安を覚えた。
ラスティグの無事を祈りつつ、今度は視線を上向けた。
「……ここは……?」
地下にある闘技場の更にその下にある洞窟のようだ。自然のものではなくて、人工的に掘られたものだろう。トラヴィスは治水が発達しているようだから、闘技場で使った水を街の各所に巡らせる為の水路かもしれない。
人気のないその場所に一人、いつまでもずぶ濡れの状態で倒れているわけにはいかないだろう。
待っていればラスティグがくるかもしれないが、彼もこことは違う場所に流されているかもしれない。何よりこのまま留まっていても助けが来る保証はどこにもない。敵の方が先に来るかもしれないのだ。
「……移動しなければ……」
少しでも人のいる場所まで行った方がいいだろう。運よく味方を見つけられれば合流できるし、そうでなくても隠れる場所があるはずだ。
ティアンナは体に纏わりつく布の一部を外して、その場に置いた。もしラスティグがこの場所にたどり着いたとしても、自分がそこから移動したのだとわかるだろう。目印を残し、ティアンナは重い足を引きずって先へと進む事を決意した。
暗い洞窟を歩いて行くと、暫くして灯りがはっきりと見えた。どうやら向かっていた先は間違っていなかったらしい。ティアンナははやる気持ちを抑えながら、その灯りに向かって突き進んだ。しかし──
(……誰かが戦っている?)
微かに聞こえてくる剣戟と怒号。それは明らかに戦闘の音だった。
ティアンナは一瞬そのまま進もうか迷ったが、戦っている相手が自分の味方であれば、合流しない手はないと思い至る。しかし自分が丸腰で、今は足手まといにしかならないのも事実だ。
どうしようかと逡巡している内に、誰かの足音がこちらへ近づいてくるのに気が付いた。
(まずいっ!)
どこかに身を隠そうにも、狭い洞窟内には水路とその脇の通路があるのみで、逃げ場はどこにもない。そうこうしている内に、足音の主は目の前に迫って来た。
「!!!」
薄暗い中に突如現れた相手。その相手からしても、いきなり姿を見せたティアンナの存在は、驚くべきものだったのだろう。走っていた足を止め、僅かに後ずさった。
ティアンナも壁に手をつき身を固くする。戦う手段は何も持ち合わせてはいないが、警戒を怠るわけにはいかない。だが──
「いたぞ!!」
目の前の人物の更に後ろから、誰かが叫ぶ声がした。その声に目の前の男は舌打ちを返す。
「ちっ……!」
男はティアンナに攻撃の意志が無いと見ると、その脇をすり抜ける為に再び走り出した。そして──
「悪いね姫さん。あんたを囮に使わせてもらうよ」
「っ──!」
そう言うや否や、男は水路に身を投じた。黒い水面に波紋が広がり、やがて消えていく。その水音に、通路の先からやってくる別の者達は足を速めたようだ。何事かを叫びどんどん近づいてくる。
(囮──そうか、初めからアスランはそのつもりだったんだな……)
ティアンナは自嘲して先ほどの男の言葉を頭の中で反芻した。
水の中に飛び込んだ男は、小柄な中年の男だった。いつもアスランの横にいて、ティアンナの存在を鬱陶しそうに見ていた男──ヒラブ。彼はあっさりとティアンナを見捨てて、自分の窮地を救う為の手段としたようだ。
「……っ!お前は!!」
ヒラブを追いかけていた男だろう。黒装束に身を包んだ追跡者が、ティアンナの姿を見つけて驚きの声を上げた。その手に持つ松明が、ティアンナの濡れそぼった姿を、暗闇の中に浮き上がらせる。
先ほどまで波打っていた黒い水面は、今はもう鏡面のように静まり返り、敵の手に落ちるティアンナの影だけを映していた──




