2章82話 交わされる熱と想い
「ティアンナ!!」
途切れる意識の中で、何故か聞こえるはずのない声が聞こえた気がした。儚い希望をそこに見出して、ティアンナは重い瞼を薄く持ち上げる。すると遠く輝く水面に黒い影がよぎるのが見えた。
呆然とその光景を見つめていれば、やがてその影は大きくなり、次第に迫ってくる。
そして一陣の水流が巻き起こったかと思うと、辺りが真っ赤に染まった。
「!!?」
眼前には、自分を捕らえていた男が苦しみもがく姿。
いつの間にか男の手はティアンナの首から離れ、周囲の水を掻くようにして沈んでいく。
けれどその光景が何を意味するのかも、最早ティアンナには理解するだけの力は残されていなかった。
薄れていく意識──その中で冷たくなっていく身体が、優しい温もりに包まれていくのを感じた。その例えようの無い安心感に、ティアンナは静かに目を閉じる。
(温かい……)
幸福な夢の中に、愛しい人の温もりを感じる。このまま死を迎えるのなら、怖いことなど何一つないだろう。そんな思いが脳裏をよぎったその時──
「っ──」
突然、熱く柔らかなものが口に押し付けられた。
それはティアンナの唇を優しく開き、そこから生命の息吹を流し込んでいく。まるで神聖な祈りのように、それはゆっくりとティアンナの中を満たしていった。
背中に回された逞しい腕が、切ないほどにティアンナの身体を抱きしめる。泣きたくなるような熱が、その想いと共に伝わってくる。
次第に覚醒していく意識。それと同時に例えようの無い幸福感が全身を駆け巡る。
その甘く心地よい感覚は、死の淵から脱した安堵からくるものだけではない。
ティアンナは自分を包み込む存在が、何であるのか本能で感じていた。絶望は希望へと塗り替えられ、恐怖に凍えていた身体は、歓喜の熱に浮かされる。
逸る気持ちを抑えきれずその目を開ければ、こちらの様子に気が付いた相手が、少しだけ顔を離して微笑んだ。
(あぁ……)
滲む視界いっぱいに、その姿が飛び込んでくる。
瞼の裏が熱くなり、胸が苦しくなるほどの喜びに表情が歪む。
大きく逞しいその身体。艶やかな黒髪のその奥に、輝く金の瞳が真っ直ぐにこちらを見つめていた。
求めていた愛しい人の姿が、そこにはあった。
(ラスティグ──)
そう心の中で名を呼べば、ラスティグは燃えるような炎をその瞳に灯し、再びその唇をティアンナのそれへと重ねた。
肌に感じる相手の確かな存在。全身を包み込むようなその力強さに喜びに胸が打ち震え、重なる唇の感触に縋るようにその熱を求めた。
冷たい水底で交わされる互いの熱。
ティアンナはそれを少しも逃がしたくなくて、力の入らないその腕で、ラスティグを抱きしめようとした。
しかし重くなった身体が思うように動かせず、弱々しくその胸に縋ることしかできない。
するとそれを感じたラスティグは、更にティアンナの身体をきつく抱きしめた。もう決して離しはしないというように。
互いの唇から漏れ出る吐息と共に、二人の身体は水面へ向かって昇り始めた。
その僅かな時の中も、二人は夢中で抱きしめ合い、互いの唇を重ね、その熱を確かめ合った。
言葉を交わさなくても、心が一つになったような感覚がする。
それは永遠の時を手に入れたかのような、世界の理の全てを知りえたかのような、不思議な感覚だった。
やがて光り輝く水面が、二人の頭上を明るく照らし始める。決して離れる事のないように互いを抱きしめ合う二人は、そのまま世界の境界を越えた。
煌めく水しぶきと共に、水上へと二人はその顔を出す。
「ティアンナ!」
逞しい腕に抱かれその名を呼ばれる。
それに応えようと息を吸おうとして、大量に飲んだ水のせいでむせてしまった。
「ごほっげほっ……!」
身体に力がうまく入らない。腕の中でぐったりとしているティアンナを抱きしめ、ラスティグはその名を呼び続けた。
「ティアンナ……ティアンナ……」
朦朧とする意識の中で、彼の大きな掌が頬を包み込むのを感じた。
薄く目を開ければ、くしゃりと歪んだような笑顔が見える。
彼女の無事を安堵するような、自分の無力さに悔しがるような。金色の瞳が今にも泣き出しそうにこちらを見つめていた。
その想いに応えるように、ティアンナは柔らかく笑みを零す。
「ラス……ティグ……」
その名を呼べば、体中を喜びが駆け巡る。
もう叶わないと思った願いが、今目の前にあるのだ。もう二度と後悔しないように、ティアンナは必死にその言葉を紡ごうとした。
「わ……たし……」
ティアンナの意識が戻った事に安堵の息を漏らしたラスティグは、表情を引き締め、背中に回した腕に力を込めた。
「ティアンナ、無理をしなくていい。今はまだ……君を無事に安全な場所に届けるまで……」
ラスティグはそれだけを言うと、未だ危険な状況であふれかえるその只中をティアンナの身体を抱えながら泳いでいく。
それでもティアンナは声を出そうとしたが、自分が思うよりも体の状態は酷いようだった。
男の手によって潰された喉は、掠れた声しか出ず、大量の水を飲んだせいで息もまだ苦しい。ラスティグの足手まといになりたくないのに、身体は指一本動かすこともできない。
「ご……め……さい……」
悔しくて、情けなくて、ジワリと熱い涙が眦から流れ出る。
「いいんだ……俺の方こそ……遅くなってごめん……」
ティアンナを抱える腕の力が強くなる。
未だ剣戟と怒号が頭上を飛び交う中、固い絆で結ばれた二人の男女は、生き延びる為に水中の戦場をひたすら前へと進んだ──




