2章81話 水底に沈む心
遠のく意識の中で、ごぼごぼと口から漏れた泡が上っていく音がする。光に輝く水面は遠く離れていき、代わりに深く冷たい闇がティアンナの身を包んでいった。
必死に水を掻いていた腕は、今は鉛のように重く、持ち上げる事すら叶わない。もう指一つ動かせないというのに、ティアンナの首を絞める男の手は緩まなかった。
確実にその息の根を止めようと、華奢な首に太い指を食い込ませ、狂気をはらんだその眼は水底の闇を映し、その先にある死を連想させた。
暗く深い水底へとゆっくり沈んでいく。
まるで地獄へと堕ちていく罪人の様に──
(……死ぬのか……私は……)
ティアンナは自らの最期を悟り、ジワリとその涙を水の中に溶かした。
こんな場所で、こんな形で、終わるはずではなかった。もっと必死にあがけばよかった。もっと自分の心に正直に生きていればよかった。
──そんな後悔が幾重にも重なる波のように押し寄せる。
後悔をしないように自分で選んだ道だった。だけどそうではなかった。
死を前にして、自分の本当の心に気が付くなんて──
(ラ……スティグ……)
霞む意識の向こうで、背の高い黒髪の青年が、金色の瞳を柔らかく細め微笑む。最期に想うのは、自分の心を捕らえて離さない彼の姿だ。
同じ騎士としてその剣技に憧れ、彼の様に強くなりたいと思った。何より主君に忠誠を尽くすその真っ直ぐな姿に、同じ騎士として自身の姿を重ね、自分もそうありたいと願った。
けれどラスティグと共にある時、自分が騎士のアトレーユではなく、女性のティアンナであると強く意識していた事にも気が付いていた。それは騎士としての自分を脅かすと同時に、感じたことのない喜びをこの身の内に湧き起こすものだった。
彼のような強い騎士になりたいと思うのに、それと相反する心がある。騎士として生きると誓ったティアンナには、それは罪である様に感じた。けれど……
──ティアンナ──
低く、柔らかく響く甘い声。
優しく笑った彼が、自分の本当の名を呼んでくれる。
熱く胸が震える。
彼にその名を呼ばれると、自分の中にいる小さな少女が、歓喜に泣くのだ。幼い頃に騎士としての道を選び、置いてけぼりにされた女性としてのティアンナの心。
誰よりも強い騎士になりたいと願いながら、いつも心の奥には少女のティアンナがいた。それを見出してくれたのは、他でもないラスティグだ。
彼が見つけてくれた──いや、彼に見つけてほしかったのだ。
彼がこの名を呼ぶ時、彼の名を呼ぶ時、狂おしいほどの熱がこの胸を焦がす。
そう、これは恋だ。
ただ一人の女として、彼に恋をしているのだ。
伝説の騎士のアトレーユのように強くなりたいとそう思っていた。そうなるのだと信じていた。
けれど自分はどこまでもティアンナのままだった。
騎士になりたいと願った心に偽りはない。それでも彼を想う心は真実だ。
──ラスティグと共に生きたい──
彼と出会って初めて自分の中に生まれた願望。その願いはティアンナの心を強く捕らえていた。
けれど騎士としての役目や国を背負う者としての立場から、その願いに必死に目を背けていた。
怖かったのだ。
騎士としての自分を見失う事が。
騎士ではない自分の姿を彼に晒す事が。
ラスティグが女性としての自分をどう思っているのか、その真実を知る事が怖かった。
臆病な少女の心は、自分の想いからも彼の心からも逃げたのだ。
それでも彼は、異国に嫁いでしまった自分の下へと来て、この手を引いてくれた。
言葉などなくても、その確かな熱を感じるだけで嬉しかった。
けれどあの時が最後だったと知っていたなら──この想いが叶わないとしても、自分の本当の心を伝えたのに……。
けれどもう遅い。
涙で滲む景色から光が消えていく。凍えるような冷たさが、永遠の闇と共に全身を覆っていく。
(ラス……ティグ……)
途切れる意識の中でその名を呼ぶ。
(ラ……スティ……グ……私は…………)
深い水底に沈むその身体から、最後の吐息が銀の泡になって昇っていく。その輝きに重ねるようにして、告げることの出来ない想いを心の中で呟いた。
(あなたの事……が…………)
暗い水底に、儚い願いと共にティアンナは沈んでいった──




