2章77話 船上の賛辞
地下闘技場での水上戦は、観客達を大いに沸かせ、拍手喝采の内に勝敗が決した。
「やぁ見ものでしたな」
エドワードが手を叩きながら、船上で戦った者達へ賞賛を贈る。しかしその表情は幾分か固い。アスランの様子を見に行かせたユリウスが、未だ戻ってきていないのだ。
「さぁティアンナ、こっちだ」
「え?」
アスランがティアンナの名を呼び、手を差し伸べた。
「水上の勝者を讃える仕事だ。お前も一緒に」
「っ!」
思いもよらぬ提案に、エドワードをはじめとしたラーデルスの護衛達に、緊張が走る。
立場ある者として、観衆の前に立つならば、当然そこには危険が伴う。だが他国の使者とその護衛である彼等はそこについては行けない。もしティアンナの身に危険が迫ったとしても、すぐそばで守る事ができないのだ。
「流石にこれだけ多くの人間達の前に出て行くのは危険では……」
エドワードが代表して皆の心の内を代弁する。
「なぁに、これも国が管理しているがゆえの大事な仕事だ。私がここに赴く時は、いつもやっている」
「……」
確かに国が管理している闘技場らしく、トラヴィスの兵がそこかしこにいて、周囲に目を光らせている。それでもこれだけの人出だ。どこに危険が潜んでいるかわからない。
「水上戦の時は、勝者を讃えるのも船の上だ。あの上に立てるのは滅多にない機会。行ってみるのも一興だぞ?」
アスランが不敵な笑みでティアンナを誘う。ここまで言われてしまえば、無下に断る事もできない。助けを求めたくとも、アスランより上の立場の人間はここにはいないのだ。
「私はただアスラン様の横にいればいいのですか?」
「あぁ、流れに身を任せておけばいい。闘士達が祝福を求めるかもしれないから、その時は手を差し伸べてやれ」
「わかりました、行きましょう」
ティアンナはアスランの提案に承諾すると、差し出された彼の腕を取った。エスコートされて闘技場の舞台まで下りていくティアンナを、エドワード達は黙って見守るしかできなかった。
水上闘技場の中央には、戦いに参加した船が既に集まっていた。勝者はその上で国王の到着を待ち、敗者は既に水から上がって控えに下がっていた。
ティアンナ達は観客席を下まで降りていき、船が着けてある場所へと向かった。客席から水面までは高さがある為、船に乗るのには人の身長ほどの高さから飛び乗らねばならない。アスランは慣れた様子で船に飛び移ると、ティアンナに向けて腕を差し出す。
「さぁ、ちゃんと受け止めるやるから、こっちにおいで」
「っ──」
高さのある場所からの乗船。アスランはティアンナを受け止める為に、腕を広げて待ち構えている。
まさかこのような乗船方法とは思いもよらなかったが、流石に騎士としての経験があるティアンナだ。特に怖がることなく、客席から飛び降りた。
美しい衣が空中を翻り、アスランの腕がそれを身体ごとしっかり抱きとめる。衝撃で船がゆれ、大きな波紋が水面に広がった。
何故か観客席から拍手と歓声が上がり、アスランはティアンナを片腕に抱いたまま、彼らに向けて片手を上げて微笑んでいた。
「美しい妃が見られるとあって、民も喜んでいるぞ」
「……見世物になるのは恥ずかしいんですが……」
仲睦まじい姿を見せつけるようにアスランは、ピッタリとティアンナに寄り添い、観客に向けて愛想を振りまいている。対するティアンナは、こうした場は苦手なので、顔を俯けるばかりだ。
二人が無事乗船すると、やがて船が進み始めた。戦いに参加していた船が周囲にはあったが、アスランの乗る船の進行を妨げないように脇へ避けており、水上には一筋の道が作られていた。
その道を進むと先ほどまで激しい戦いを繰り広げていた猛者たちが、両脇から一斉にこちらを注目する。彼らから向けられる視線は、どこか鋭い。まるで敵陣の中に一人紛れ込んでしまったような心地になる。
やがて船は闘技場の中央に到着した。そこには勝利した軍を率いていた将が乗る船が待っていた。
船が横付けされると将が乗り込んできて、すぐさまアスランの前で跪く。まるで王に忠誠を誓う騎士の様に厳粛だ。
気が付けばあれほど騒がしかった歓声が、いつの間にか止んでいた。皆がアスランに注目していた。
どこかピンと張り詰めたような空気の変化にも、アスランは動じることなく高らかに勝者を褒めたたえる言葉を紡いでいく。
「見事な戦いぶりであった。巧みな操船と戦術、またそれに引けをとらぬ剣や弓の腕は、勇者として讃えるに相応しい。ここにこの国の王として貴殿らの勇姿を讃えよう」
王からの賛辞に、将の男は深く頭を垂れた。そして勝者の証であろうか。黄金に輝く盃がアスランから手渡され、男は跪いたまま恭しくそれを受け取った。
白熱した試合から一転、粛々とした空気がそこには流れていた。アスランはこの国を統べる王として勇壮な戦士を讃え、またその賛辞を受ける事を誉とした者達がいる。
(民族は違っても、アスランは王としてここに君臨している……これはそれを示す場なんだ)
ティアンナはすぐ脇で彼らのやり取りを見て、そう感じた。民を楽しませるための娯楽、軍事力を育成するための闘技、そして王としての権威を示す場──全てがアスランの掌中で管理され、その思惑通りに行われている。
国として、いや、王としての強大な何かを見せつけられたような気がして、ティアンナは背筋にひやりとしたものが伝うのを感じた。目の前に繰り広げられる光景のその奥にあるものに想いを馳せていると、突如下方から声を掛けられる。
「恐れながら、遠き約束の地のお妃様とお見受けいたします。不肖の一兵卒ではございますが、此度の勝利の暁に、約束の地のお妃様の祝福を賜りたいと存じます」
そう言って目の前で跪いた男はこちらに向き直ると、その手を差し出した。
(これが祝福を求められるということか──)
アスランに視線をやると、微笑を湛えた頷きを返される。妃としての立場にため息をつきたくなるのを我慢し、意を決してティアンナは右手を男の手へと重ねた。
男の褐色の指先が白く柔らかな妃の手を迎え入れる。軽く握られたそれは、跪く男の額へと導かれ、目を瞑った男は何か言葉を口にしていた。それはまるで信仰の深い者が、神にささげる祈りのように見えた。
やがて男は顔を上げると、その漆黒の瞳にティアンナの姿を映す。
「約束の地のお妃様が、偉大なるタゥラヴィーシュの王の下に参られましたこと、誠に喜ばしく、お祝い申し上げます、王様」
男の言葉にティアンナはなんと声を掛けて良いか分からず、ただ戸惑ったような笑みを浮かべた。
(──約束の地?……何故私が約束の地の妃と呼ばれるんだ?)
約束の地という言葉に、アスランが以前話してくれたタゥラヴィーシュの歌が思い出される。しかし自分がその約束の地の妃と呼ばれることに、違和感を感じた。
「アスラン様……」
「ティアンナ」
戸惑いの声を上げると、彼は手を取り、自身の腕の中へティアンナの身体を収めた。そしてその身体を抱き上げる。
「アスラン様!」
抗議の声を上げるが、アスランはそれを不敵な笑みで一蹴する。
「皆がお前を見たがっているのだ。客席へ向けて手を振ってやれ」
アスランの肩に担がれると、それまでの厳粛な空気が一瞬にして歓声に破られる。
「王様ー!」
「タゥラヴィーシュ万歳!」
「お妃様ー!」
まるで会場全体が大きな意志を持った渦の様に、人々の口から歓喜の言葉が放たれ、その波に翻弄される小舟の様に、ティアンナの心はざわざわと落ち着く場所を見失っていた。
(彼らは私を通して、ロヴァンスを見ているのだ。このまま両国の間に和平が訪れればいいのだけど……)
チラリと視線を向けるのは、他の船に乗っている闘士達。一つの軍として闘ってはいたが、彼らは様々な部族の寄せ集めなのだろう。風貌や衣装がそれぞれ異なっているように見受けられた。
そしてそんな彼等がティアンナに向ける視線は、一層険しいものとなっている。歓喜に沸く会場からも、似たような視線をいくつも感じた。
彼等から感じるのは、明らかな敵意。
「アスラン様──」
身の危険を感じてアスランの名を呼ぼうとしたその時、ぐらりと大きく船が傾いた。




