2章72話 戦王の決断と残された者達の後悔
――ロヴァンス王国王城――
既に日が暮れて数刻経っているが、ロヴァンスの王城内は未だ静けさとは無縁であった。兵士や騎士達が忙しなく行き交っており、どこか物々しい。
国王の執務室も例外ではなく、国王ウラネスが疲労の色を滲ませながら部下の報告を聞いていた。
「陛下。カザ砦、ギヤム砦からの伝令が参っております」
「うむ、通せ」
ウラネスの許可が出され、すぐさま最前線の砦からの伝令が通される。トラヴィス国王との婚姻が決まった時から国境沿いの軍備は整えられ、花嫁一行が襲われた一件を境に、既に戦時体制へと移行している。その為、情報の伝達は昼夜を問わず行われていた。
「抜け道からの襲撃か……相手方を下手に刺激しないように山岳地帯の調査を怠っていたのが災いしたか」
カザ砦、ギヤム砦共に南端に位置する砦であり、中でもカザ砦はトラヴィスまで続く街道沿いにある。他の地域よりも開けている為に、トラヴィス側の部族との戦いも多い場所だ。
しかしながらギヤム砦からの報告では、これまで考えられなかった場所からの襲撃があったとの事で警戒を強めているという。
「国境を越えない程度に山狩りと、南方の軍備強化が必要だな。北方の部隊を一部回せ。それから事が落ち着くまでは、トラヴィスだけに関わらず、交易などの流通はすべてチャンセラー商会を経由する事を徹底させろ」
「は!すぐそのように」
この十年の間、南方の国境沿いはある意味禁忌に近い地域であった。その原因は十年前に端を発するのだが、ウラネスとしては今の状況がその時と酷似している事を懸念していた。北方の軍備を回すというのは、余程の事である。
「トラヴィスへ潜入した者達からの報告は?」
「は!チャンセラー商会は無事に首都に拠点を構え、それぞれが動いているようです。ティアンナ様との繋ぎがつけられたかどうかは、次の報告で分かるでしょう。ジェデオン様も向かわれた事ですし、これからはより密な報告になるかと」
「うむ、期待している。しかしいくら異国へ嫁ぐのだと言っても、妃以外の異国人を後宮に入れることができないとは厄介だな……」
ウラネスとて、ティアンナをたった一人でトラヴィスの王宮へとやるつもりはなかった。相手側から望んだ婚姻なのだ。侍女や護衛をつけることを前提とし、認めさせるつもりだった。
しかしこの婚姻は普通のそれとは違う。ウラネスとアスランとの間に秘密裏に交わされた真の目的──そしてそれに沿う為に、あえて普通の婚姻であると見せかけることが必要だったのだ。
ウラネスが思案に暮れている中、部下の者は報告を続けていく。
「首都に向かう途中のルシュタールという街で、ティアンナ様は敵の襲撃を受けられたそうです」
「何?それで無事だったのか?!」
「街中を一人になった所を狙われたようですが、先に潜入していたラーデルスの騎士が追っ手から救ったとのことで無事です。しかし襲撃者はトラヴィス側の兵士に連れていかれてしまい、こちらでは詳しく調べられなかったと。他にも白昼堂々と人殺しが続いているとの情報も入ってます」
「そうか……トラヴィスの思惑通りに敵が動いたという事だな……それにしてもあの者は約束通り我が国の為に……いやティアンナの為に動いてくれているのだな」
ウラネスは数週間前にラーデルスの使者としてやってきた男の事を思い出していた。
騎士として恵まれた体格、それに見合うだけの技量、そして意志の強さ──どれをとっても彼が傑出した人物であることは間違いない。ラーデルス一の騎士という噂も間違いではないだろう。
そんな人物が異国であるロヴァンスの為に動いている──一見意外な事のようであるが、それはラーデルス王の許可する所であった。
トラヴィス国王とティアンナとの婚姻が決まった時、ウラネスはすぐに隣国であるラーデルスへとその旨を伝える書状を送った。先の国境沿いの大森林での戦は記憶に新しく、未だトラヴィスの脅威はこの二国にとっては大きなものであったからだ。今後トラヴィスの動きは特に注視しなければならなく、その際にはラーデルスに何かしらの協力を要請するつもりだった。
しかしラーデルスの王は先見の明があったようで、こちらの書状が着くよりも先に、婚礼の返礼品と共にこの事態を打開する為の書状を寄越していたのだ。
それにはロヴァンスとラーデルスの国交を更に深める事、そしてトラヴィスとも国交を開くつもりである旨が書かれていた。
──三国を跨ぐ大森林を協力して切り開こうではないかと。
ウラネスはその提案に身震いするのを感じた。これまで閉じる事で国の守りを固めてきたラーデルスが、あえて国を開くことで自国を守るという発想の転換をしたこと。既にトラヴィスが森林地帯に直接攻めて来たという事実があるからこその選択。だがそれは安易にできるものではない。
そしてその書状とは別に新たに送られてきた使者が、ラーデルス国王からの書状を持ってきていた。それこそトラヴィスとの婚姻に関する書状──だがその内容は想像したものとは全く違い、驚くべきものだった。
──我が国の騎士が貴国の花嫁を守りたいと願ったら、どうかその願いを聞き届けて欲しい。必ずやその騎士は貴国の力となるだろう──と。
「まさか自国一の騎士を、ただ一人の女の為に貸し出すとはな……」
ついその驚きが呟きとなって漏れてしまう。だがこれらのラーデルスの申し出はありがたい事だった。
第3王女のキャルメがラーデルスの王と婚姻を結んだ事により、東方の憂いは無くなったに等しいが、大森林の奥にトラヴィスからの侵入経路が存在するのならば未だ気を緩められない。しかしそれはラーデルス王の提案によって解決することができるはずだ。
また王国一という凄腕の騎士を花嫁の守りに付けられるという事。これは今回のトラヴィスとの取引にとって何よりもありがたい事だった。
「ところでルシュタールの件を聞いて、ジーラス様が直々に動き始めたとの報告がポワーグシャー家から入っています」
「何?ジーラスが?」
現ポワーグシャー公爵セガロンの弟であるジーラスは、特務師団を取り仕切る団長であり、灰銀の狼と恐れられている人物である。この兄弟はどちらも軍部のトップを司っているが、表側を取り仕切るのは将軍である兄のセガロン、裏側を取り仕切るのが特務師団団長で弟のジーラスである。裏を取り仕切るジーラスが自身で動くことはそうないのだが、彼が動いたという事は余程の事態があったのだと考えた方が良いだろう。
「はい。チャンセラー商会の報告はあちらへは全て入りますので、既にトラヴィスへと向かったようだと……」
「ふむ……何かあの男の心に引っかかるものがあったのかもしれないな……」
ウラネスは暫し思案すると、部下に指示を出した。
「セガロンを呼べ。十年前の二の舞だけは避けねばならん」
頭を垂れた部下は、王の言葉を持って部屋を辞した。
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ロヴァンス城、近衛騎士団の団長執務室──
「ハデス!」
「マルデラ……」
ポワーグシャ―家長男で、近衛騎士団団長のハデスの元にやって来たのは、彼の妻で元第一王女のマルデラである。
マルデラはどこか不安げな表情で夫へと近寄ると、縋るように問いかける。本来ならば軍部に勤める夫の仕事について口を出せる立場ではないが、今は家族がトラヴィスの地にいるのだ。その無事を知りたくてここまで来てしまっても仕方ないだろう。
「……ティアンナ達の情報は入ったの?双子達も今トラヴィスにいるって……」
「あぁ、それで今、父が陛下に呼ばれている」
「そう……あの子達は大丈夫かしら……もし十年前みたいなことがまたあったら……」
悲痛な表情で自らを抱きしめるマルデラ。十年前にトラヴィスとの間で起きたこと──当事者以外でその詳細を知る者は少ないが、これが原因でロヴァンスとトラヴィスの間に大きな禍根を残したことは間違いない。そしてそれは関わった者達に後悔という名の重たい枷を背負わせる結果となった。
中でも最も罪を感じているのは、当事者であったマルデラだろう。騎士であったハデスも当時あの場所で剣を振ったが、彼女は闘うこともその悲劇を止めることもできずに、突きつけられたその結末にただ嘆くことしかできなかったのだから。
マルデラはこの十年、ハデスと結婚し子供も授かり、次期公爵夫人としての役目を務めてきたが、心の中ではずっと己が犯した罪に苛まれ続けていた。
そんな妻の苦悩を理解しているハデスは、彼女を安心させるようにその肩を抱き寄せる。自身は近衛騎士団の団長であるが故にトラヴィスへと赴くことは叶わないが、ポワーグシャー家の者達が彼の代わりに尽力してくれるだろう。
「……大丈夫だ。ポワーグシャー家の者達が総力を挙げてティアンナを守る。今は皆を信じよう」
「えぇ、それはわかっているわ。でも不安で仕方ないの……まるで私が犯した十年前の罪を、ティアンナが代わりに償っているようで……もしあんなことにならなければ、ティアンナがトラヴィスに嫁ぐこともなかったのに……」
「マルデラ……君の苦しみはわかる。だが過去は変えられない。それに十年前のことはが陛下や将軍である父が決めたことだ。君に咎はない」
「……ごめんなさい、ハデス……でも私は自分の罪を忘れた日はなかった。貴方達の尽力を私が後悔してはいけないとこれまで口にすることはできなかったけど……」
そう言ってマルデラは苦し気に眉を顰めた。十年前、ロヴァンスの花嫁の役目を負ったのは他ならぬマルデラだ。だが和平締結の為の会談は失敗に終わり、その後トラヴィスは内戦へと突入した為、全て立ち消えになっていた。
その中で十年前の悲劇がもたらした禍根は根深く、また失ったものも多い。それが巡り巡って今の状況に繋がっているのだと思うと、マルデラは他人事ではいられなかった。
「マルデラ……君の気持ちはわかる。だが誰が何と言おうとも君が俺の妻として、また子供達の母として、今もこうして生きていてくれることを神に感謝しない日はないんだ……君が生きていてくれて本当によかった……どうかそれを忘れないでくれ」
「ハデス…………えぇ……そうね。子供たちの為にも、こうして生きていられることを後悔してはいけないわ……」
涙を滲ませたまま、マルデラは小さく微笑む。当時ただ守られることしか許されなかった王女は、今は騎士の妻となり、また子供達の母となって強くなった。その未来が開けたことにハデスは感謝しない日はない。だが同時に、今の日常が多くの犠牲の下にあることも理解していた。そしてそれが今のトラヴィスとの状況をもたらしていることも。
降りかかる不安を掻き消すかのように、ハデスは腕を回して妻の身体を抱きしめた。マルデラが罪の意識に苛まれ続けているのと同じく、ハデスもまた十年前に背負った罪をこれまで抱えてきたのだ。この手で流した血とその後悔を忘れてはいけない。
「……必ずティアンナを守り、十年前の因縁を断ち切る……それが過去に失った者達への餞になるはずだ」
「……ハデス……」
夫の力強い腕に抱きしめられながらマルデラは頷く。そしてふと思い出したようにその名を呟いた。
「彼女も…………リムルもそう思ってくれるかしら…………」
「……あぁ……きっと…………」
マルデラの口から呟かれた名前に、抱きしめるハデスの腕に力が籠る。目を閉じれば今もまざまざと思い出せるあの日の光景。脳裏に過るのは、共に命を懸けて戦った同胞を斬った生々しい感触と、向けられた悲痛な怒りだ。
今、愛する人を抱きしめているこの腕が、かつて愛する者を失った同胞を斬る為の剣を握るしかなかった。その悲劇を繰り返してはいけない。
二人は祈る様に静かに互いの熱を確かめ合った。今ある幸福に感謝し、苦難を乗り越えていかなければならない。そして今まさに苦難に立たされているティアンナを助ける為に、自分達ができることをしなければならないと誓い合ったのだった。




