2章71話 歓待の宴
──トラヴィス王国:王宮内──
──ドサリ──
宮殿の人気のない廊下の奥で、何かが崩れ落ちるような音が響く。しかしそれは晴天にそよぐ風の音と、宮殿内の喧噪によってかき消された。
ズルズルと衣擦れの音が磨かれた石の廊下を伝い、僅かな影がその奥に蠢く。
暫くした後に出てきたのは、先ほどこの場から消えた人物よりも背の高い、顔を黒い布で覆った一人の人物だった。
そしてその傍らにはもう一人、背の高い男を補助するように彼の少し乱れた衣服を直してやっていた。どちらもトラヴィスの衣装を身に纏っているが、二人はこの国の人物ではない。
背の高い男の方は、宮殿の兵士の衣装を身に着け終わると、曲刀を腰に差した。
もう一人の男──こちらは人足といったいで立ちであるが、今度は自分の支度を整える為にその場にしゃがみこんだ。
彼らの足元には褐色の肌の男が一人、衣服を身に纏わない状態で気を失って倒れていた。
彼はこの宮殿の兵士。背の高い男の方がその兵士と入れ替わる為に、彼をこんな状態にしたのだ。
人足風の男が、気絶した兵士を抱え込み、背の大きな男も手伝って、用意された大きな箱に詰め始めた。そしてそれに蓋をすると、人足風の男はよっこらしょとその箱を背負う。
普段であれば宮殿内にこんな荷物を背負った人足などすぐに見とがめられるだろうが、今は事情が違っている。昨夜の襲撃により多くの人間が亡くなったのだ。未だその惨劇の跡はそこら中に残っており、犠牲者の遺体もまだ運び出されていないのも多い。
その為に街の外からの人足の手も借りて、このような形で秘密裏に犠牲者の遺体を外へ運び出していた。
勿論彼らが運ぶのは、気絶しただけの生きた人間だ。だが彼がこの宮殿に潜入する為には必要な犠牲である。
人足風の男の準備もできたことを確認すると、背の高い男はその場を離れようとした。彼にはこれから重要な役目があるのだ。だがそんな彼を、人足風の男が心配そうに声を掛け引き留めた。
「気を付けてください……もしも見つかったら……」
「わかっている……だが、いざとなったら俺の事は気にせず斬り捨ててくれて構わない」
「ですが……」
「どこの国の者とも知られなければ、責めを負うのは俺一人だけで済むからな」
「……わかりました」
男達の会話はそれだけで終わった。
彼らの目的はただ一つ。
この宮殿の中に囚われている、ロヴァンスの花嫁を守る事だった──
ティアンナは王宮の控えの一室で、その時を待ちわびていた。彼女が待つのは、双子の妹、フランシーヌとミスティリアだ。
遠くロヴァンスから、砂漠を越え自分に会いに来たという妹達。
謁見の場に同席していないティアンナは、その知らせは俄かには信じられなかった。だがアスランからは「流石お前の妹だな」と楽し気に言われて、複雑な想いとともに、もしかして本当にやって来たのかと期待したのも事実だ。
そんなティアンナと双子達の再会の場として、表向きはラーデルスの使者を歓待する為の宴の席が用意された。
その部屋は街を一望できる大きなバルコニーがあり、広々とした開放的な造りで、既に種々の料理や酒の類が用意されていた。
ティアンナはその部屋の奥に続く控えの間にて、アスランから呼ばれるのを待っていた。宴の席と控えの間を隔てる幾重にも張られたヴェール越しに様子を窺うと、使者の一行が部屋に入ってくるのが見えた。
絨毯の上に並べられた料理を中心に円を描くようにして、使者や連れの者達が次々に着座していく。また彼らについてきた護衛達は、静かに部屋の隅に位置取り控えた。
「私からの歓迎の印だ。さぁ、遠慮なく楽しんでくれ」
ヴェールの向こう側では、機嫌のよさそうなアスランの声が響く。すぐに侍女達が酒瓶を持って客人の側に侍り、もてなし始める。突然の使者の来訪であったにも関わらず、その歓待の席は完璧に整えられていた。
その様子を、ティアンナは落ち着かない気持ちで見つめる。暫くするとアスランから声がかかった。
「さぁ、お前もこちらへおいで。一緒に客人をもてなしてくれ」
部屋中の視線が一斉に注がれる中、ティアンナはヴェールをくぐり宴の席に姿を現した。視線をあげれば、ちょこんと行儀よく座る双子の妹達の姿が目に入る。
(本当に……フランとミスティがやってきていたなんて……)
ひとたび愛しい家族の姿を目にすれば、ティアンナは様々な事情など頭の中から抜け落ちてしまった。僅かな距離でさえもどかしく、二人に駆け寄る。
「フラン!ミスティ!」
「お姉さま!!」
立ち上がろうとする双子を腕に抱きとめ、その温もりに安堵してティアンナは膝から崩れ落ちた。
「あぁ……お前達、なんでこんなところに……トラヴィスまでやってくるなんて……心配で胸が潰れてしまうよ」
思わぬ家族との再会に、ティアンナの目には涙が浮かんでいた。ここに来るまでの様々な苦労が脳裏に呼び起こされる。
もう二度と祖国の地を踏むことも、愛する者達に会う事も叶わないと、そう覚悟してこの国にやって来たのだ。
そんな中での家族との再会。溢れ出る涙を止めることが出来わけなかった。
「……ごめんなさい、お姉さま……」
「あぁ……本当に無事でよかった……会いに来てくれて嬉しいよ……」
申し訳なさそうにする双子達に、ティアンナは頬を涙で濡らしながらも美しい笑顔を見せた。本当なら姉として妹達を叱らなければならない所なのだろうが、再会できた喜びで胸が埋め尽くされている。
今できるのは、その確かな温もりを離さぬように、強く抱きしめる事だけだった。
遠く異国の地に分かれてしまった仲の良い姉妹。その再会は周囲の人々の心を打った。ティアンナをこの国に連れてきたアスランでさえ、僅かに罪悪感を感じたほどだ。
暫くの間、ティアンナは時を忘れたように双子達をその腕に抱いていたが、ようやく今の状況を思い出し顔を上げる。そして慌てて涙を拭うと、周囲へ向けて謝罪を口にした。
「取り乱してしまって申し訳ありません……」
「いや、大丈夫だ。無事に再会を果たす事ができて良かったな」
いつになくにこやかな笑顔で見つめるアスランの瞳には、慈しみの情が溢れており、ティアンナは安堵する。しかしそれもつかの間の事。次にアスランが口にした言葉に、ティアンナは戦慄した。
「なんなら、双子達を私の妹として王宮に住まわせてやってもいいぞ?」
「それは……!」
ティアンナは驚きに言葉を失う。アスランはいつもと変わらず、余裕の笑みをその顔に浮かべ、冗談か本気か分からない態度だ。
だがアスランは油断のならない王だ。今は甘く蕩けるような笑みを向けたとしても、明日には冷酷な処断を下すかもしれない。ティアンナはヒヤリとした汗が背中を伝うのを感じた。
「え?私たちもお姉さまと一緒にここに住めるの?」
「砂漠のお城に住めるってわくわくする!」
ティアンナの心配をよそに、双子達は無邪気にはしゃいで喜んでいる。
「あぁ、好きなだけ滞在すればいいぞ。タゥラヴィーシュの宝石と言われるほどの自慢の街と城だからな」
機嫌よさげな笑顔のアスランの発言は、もはや冗談では済まされなさそうだ。ティアンナは双子を守るように抱きしめながら、甘言で彼女達を丸め込もうとするアスランを睨みつける。
「妹達はちゃんと国に帰してやってください!いくらなんでも冗談が過ぎます!」
「はははは!そう怖い顔をするな。だが怒った顔も中々に魅力的だ」
アスランはティアンナの態度を気にすることなく、豪快に笑い飛ばす。ティアンナもそんなアスランの笑い声に、少しだけ頑なな態度を緩めたようだ。
この一連のやり取りに、侍女をはじめとした周囲の者達は驚いていた。冷酷な印象のアスランは、後宮の妃にでさえ気を許さず、ましてやこのように冗談を言い合うなどこれまであり得なかった。
使者として来たエドワードや護衛達にとっても、アスランがティアンナに対して見せる気安い態度に、政略以上の何かがあるのではと感じずにはいられなかった。これは予想もしていなかった事態だ。
エドワード達が、フランとミスティの双子を国王との謁見の場に同席させたのは、ティアンナとの繋ぎをつける為。王宮に来る前に、チャンセラー商会の長であるラティーファに頼まれたからであった。
しかしそれは危険を伴う事であるし、何よりティアンナと会えるかどうかは賭けでしかなかった。正式なラーデルスの使者と同席ならば、可能かもしれないという淡い期待の下やってきたのだが、蓋を開けてみればどうだ。ティアンナの妹というだけでこの歓待ぶり。
エドワードは苦い想いが胸の奥に広がるのを感じながら、彼らの様子を見守った。
「ティアンナ、こちらへ」
そんな周囲の戸惑いを知ってか知らずか、アスランは甘い声でティアンナの名を呼ぶ。ティアンナは妹達の側を離れることに不安を覚えたが、すぐに自分の立場を思い出し、その言葉に従った。
差し出されたアスランの手に、自分の手を重ね、その隣へと座る。乾いた涙の跡を拭うと、少しだけ冷静になった。
(……今はアスランの機嫌を損ねてはいけない……フランとミスティを、無事に帰すまでは……)
そう心の中で誓う。ティアンナも、ただ単に双子達が姉に会いたいだけでこの場にやって来たのではないことをわかっていた。
(きっと双子達はラティーファ姉さまからの使いだ──)
ティアンナは特務としてようやくチャンセラー商会との繋ぎをつけられる事に、密かに意気込みを新たにした。
その後、宴を一足先に退席したアトレーユは、フラン、ミスティの双子達と共に部屋に戻ってきていた。そこは昨夜アトレーユが使っていた後宮の部屋ではない。後宮は昨夜の惨劇の跡がまだ色濃く残っている為、急遽王宮内に新たな部屋が用意されていた。
案内の侍女達が退席し、外には護衛が立つだけとなった所で、双子達は声を潜めてアトレーユへの伝言を伝えた。
「何だって?ジェデオン兄さまが?!」
「……そうなの」
「何てことだ……」
双子達から告げられた言葉に、アトレーユは戦慄した。
昨晩、王宮内だけでなく、街中でも血の惨劇があったようで、それにジェデオンが巻き込まれたというのだ。
「まさか……ナイルが……」
アトレーユは、ジェデオンを刺した人物に心当たりがあり、思わずその名を口にした。
昨晩後宮に現れたナイルは、鳩羽色の外套を深く被り、虚ろな死神のような瞳でその身を血に染めていた。鮮やかに二刀を操り舞うその姿は、確かによく知るナイルだったが、同時に全く知らない男に見えたのも事実だ。
「何故兄上を……」
「……」
アトレーユの呟きに、双子達は泣きそうになりながらも、それ以上は言葉を紡がずに黙っている。彼女達も宴の席では明るく振舞っていたが、アトレーユへの繋ぎをつける為に、必死でそう装っていたのだろう。本当ならば刺された兄を想い、側についていてやりたかったはずだ。
アトレーユはそんな双子達を慮り、これ以上の考えは口にすまいと心に決めた。教えられた事実以上の事は、双子達にはわからないだろう。何せ彼女達は特務とは無縁でこれまで生きてきたのだから。
アトレーユはニコリと妹達に微笑むと、安心させるように彼女達の頭を撫でた。
「大丈夫だ。姉さまがついている。それに兄さまだってすぐにぴんぴんして戻ってくるさ」
「……うん」
「そうだね……」
既に涙目だった双子達は、姉の優しい手の感触にぽろぽろと泣き始めてしまう。それでも大丈夫だと言ってくれる姉の心強い言葉に慰められ、笑顔を見せていた。
アトレーユはそんな二人の姿を見て、これまで漠然と感じていた不安が、消えていくのを感じていた。
自分は大切な人たちを守る為に、この国へとやって来たのだ。その為には、くよくよと悩んで立ち止まってはいられない。守るべき者達の為に戦うのが騎士ではないのか。
そこには強い眼差しの騎士、アトレーユの姿があった──




