2章62話 タゥラヴィーシュの歌
トラヴィス王国には広大な砂漠が広がっている。そのほぼ中央にある首都ヴィシュテール。この街が首都として機能できるのは、トラヴィス王国の南北を囲うようにして連なる山々から流れてくる河川が、この地で合流するからだ。
乾いた大地を、神々が祝福したかのように潤す大河。それは人と緑をこの地にもたらし、やがてそこに国ができた。
そんな河がタゥラヴィーシュの王宮の敷地内を流れている。その一角──
「さあ早くその身体を清めてくるがいい。私はここで見守っている」
ニヤニヤと笑みを浮かべ河べりに座るのは、国王のアスラン。そしてその視線に戸惑い顔を赤くするのは、その妃であるアトレーユだ。
アスランに連れて来られたのは王宮の端、翡翠色が美しい河のすぐ横、つまりは外である。
「こんな裸で見られていては無理です!」
アトレーユは裸にシーツを巻いただけの恰好で外に連れ出されたことに、戦々恐々としていた。辛うじてここは王宮の敷地内のようだが、それでも人の目がある屋外である。
「はははは!沐浴は裸でするものだ。ましてや女性はな」
「うぅ……」
顔を真っ赤にして、アトレーユは河べりでウロウロするばかりだ。
侍女達が遠く二人の様子を見守っている。しかしその目には、二人のやり取りは夫婦仲睦まじい姿として映っているのだろう。彼女達が助けてくれる様子はない。
「仕方ないから手伝ってやる」
なかなか沐浴をしないアトレーユに対し痺れを切らしたアスランは、やおら上着を脱ぎ始めた。
「いえっ!結構です!結構ですからっ!!」
必死でそれを止めようとするも、アスランがやめる気配はない。
半裸の状態でアトレーユの下へ来ると、その身体をシーツごと持ち上げた。
「大人しくしていないと落ちるぞ」
アスランに抱きかかえられたまま河の中へと二人で入る。冷たい水が肌に触れ、その緩やかな流れを感じた。
「っ──」
恥ずかしさよりも驚きに身体を固くする。このように誰かの見ている野外で水浴びをするなど考えもしなかった。
「……水の神は男神だからな。女性が裸で沐浴をすると喜ぶのだ。祝福を授かると言われている」
アスランがアトレーユを抱いたまま言った。
「え……?これにそのような意味が……?」
ただの悪戯かと思っていたアトレーユはその言葉に驚いた。おかげで少しだけ緊張がほどけたのか、必死の抵抗が無くなったことにアスランは小さく笑った。
「代わりに大地の神は女神だ。母なる地に我々は生まれ、そして眠るように地に還っていく」
説明をしているアスランは遠い目をしていた。
「──トラヴィスでは、この自然が大いなる神なのですね」
アトレーユはアスランの腕の中で、美しい翡翠色の水を掬いながら、その神秘的な考えに感嘆していた。
「そうだな……少しこの国の話をしてやろう……」
アスランは一つ咳払いをすると、朗々と一つの詩を詠んだ。
始めに大地の女神がそこに種を蒔いた
豊かな水は男神がもたらした
そこにタゥラが生まれた
タゥラはやがて王となり
その地を治めることを神々に許された
偉大なるタゥラヴィーシュ
約束された地──
神々に守られし地──
「……綺麗な歌……タゥラとは人の名前ですか?」
「あぁ……私の先祖だ。国名のタゥラヴィーシュはそこから来ている。ヴィーシュとは神々の土地の意味だな。このヴィシュテールにもついている名だ」
トラヴィス……タゥラヴィーシュの国名を、国王のみが冠せるという理由がよくわかる。タゥラの子孫だけが、王としてその地を治める許しを神に得ているのだ。
「……我が国がお前達の国へと戦を仕掛けることが恐ろしいのだろう?」
アスランが腕の中のアトレーユを覗き込み、そう聞いてきた。
獰猛で戦が好きな国としてしか見てこなかったトラヴィスの、その国の考え方を知れば知るほど、何かが違うのではないかと、そう思ってしまう。彼らが求めていることは、ロヴァンスから見えるものとは違うのではないかと──
「……何故私達の国は争わねばならないのでしょう……」
その呟きに答えるように遠くで水鳥が鳴いた。
その声を辿り視線を遠くにやると、河辺に色んな人々の姿が見えた──子供を遊ばせる者、家族の衣服を洗濯をする者、河を使って商売の荷物を運ぶ者。
この美しい河の水は、この街の人々、そしてその先にいる土地の人々の下へと流れていく。豊かで厳しい自然が広がり、その一つ一つにその地で必死に生きている人々がいる。
──それはロヴァンスでもトラヴィスでも何一つ変わらないのだ。
「騎士として戦うという事は、私にとっては普通の事でした。……ですがこうしてこの国に来てみると、私が敵として奪ってきたその命の向こうには、彼らの死を悼む家族や友人がいたのだと、そんな当たり前のことが見えていなかった……それに気づかされました……」
アトレーユの言葉をアスランは静かに聞いていた。
澄んだ風が河の水面に輝く光の波を立たせていた。美しい景色がアトレーユの心を癒すかのように、穏やかに広がっている。
「ティアンナ……お前は騎士としても、上に立つ妃としても相応しいものを持っているのだな……。
──大丈夫だ……お前の望むものは手に入る……私がそうさせる」
アスランのその言葉は力強かった。
「……本当に?」
「あぁ……お前をこの国に連れてきたのもその為だ……お前の力が必要だ──」
アスランの言葉は、穏やかな河のせせらぎの音に溶ける。
「そんな日が来るなら──」
望むものはただ一つ、両国の平和だ。
そんなアトレーユの想いを、トラヴィスの高く蒼い空が受け取るように、水鳥が飛び立つ。紺碧の水面に、銀の雫がキラキラと輝いた。その美しさにアトレーユの目が優しく弧を描く。
柔らかな微笑──美しいロヴァンスの花嫁。
それはまさに神々に祝福された、約束の地の花嫁。
タゥラの子孫であるアスランが、その手にするのにふさわしい乙女。
しかしそんな彼女を見つめるアスランの心には影が差していた。
己の感情とは裏腹に、彼女へ死をもたらすかもしれない決断をしたのは、彼自身なのだから──




