2章59話 明けきらぬ夜
暗い地下道を暫く進むと、やがて地上へとつながる場所へたどり着いた。
上部には垂直に縦穴が開いており、そこにあるはしごを使って地上へと出ると、四方を建物で囲われた中庭のような場所へと出る。
──どうやらここは既にチャンセラー商会の敷地内のようだった。
「無事にここまで来れたのか……」
窮地から何とか脱したことに、男はひとまず安堵の息を漏らす。すると、建物の中から一人の女性が、髪が乱れるのも厭わずに駆けつけてきた。
「ジェド!……あぁっ……なんてことっ……!」
その女性は眼鏡の奥の瞳いっぱいに涙を溜め、その場に崩れ落ちそうになるのを、やってきた他の者達に支えられていた。
そんな女性をよそに商会の者達は、ジェデオンを抱えた男を建物の中へと案内する。
「治療の用意はできています!すぐにこちらへ!」
中へ入ると、すぐに大きな部屋に通された。地下道に待機していた商会の者によって、既にジェデオンの状態は伝えられていた。
大きな寝台に清潔な真っ白いシーツ。たくさんの布と湯が用意され、医師と思しき人物が様々な器具を用意して、彼らの到着を待っていた。
男はジェデオンを寝台に横たえると、そのまま部屋から辞した。これから先の事は、彼等に任せるしかない。
チャンセラー商会は、表向きはロヴァンス王国の商業組織である。しかしその裏で諜報を担っていることは、男も既に承知していた。
常に危険と隣り合わせの任務を伴う為、商会には裏の事情を知る医師が常駐しており、その技術は王宮の医師と引けを取らない。
しかしその医師の腕を持ってしても、ジェデオンの怪我は助かるかどうか微妙で、己の無力さに、虚しさが募るばかりだった。
そんな男を気遣った商会の者が声を掛ける。
「湯の用意が出来てます。調査は他の者が行ってますので、ゆっくり休んでください」
「あぁ……」
瀕死のジェデオンをずっと背負ってきた為、黒い衣には血がべっとりと付き、男もだいぶ汚れていた。
男はありがたくその提案を受け取ると、凄惨で長い夜にようやく一息ついたのだった。
────一方その頃────
「逃がしただと?」
凍てつく声が王の居室に響く。
アスランにその報告をした兵士は、その声音の恐ろしさにすっかり萎縮してしまっている。
「は、はい……路地裏まで追い詰めたのは追い詰めたのですが、忽然とその姿が……」
「逃がしたでは済まされないぞ!」
──ガシャンッ!──
怒りをぶつけるようにして、アスランは手に持っていた杯を床に投げつける。大きな音を立てて破片が飛び散り、その後は凄絶な怒りの滲んだ静寂が支配した。
何かを考えこむようにして、一人部屋を歩き回るアスラン。
その様子を見ることも、部屋を辞すことも出来ない兵士は、ガタガタと床を見つめながら震えるのみだ。
やがて王者の口から飛び出した言葉は、周囲の者を凍り付かせるのに十分なものであった。
「夜明けとともに、ロヴァンスの花嫁を、第一の位の正妃にすると布告しろ」
「それは──っ」
それまで黙って状況を見守っていたシュウランが、王の言葉に異論を唱えようとした、が──
「……奴らが餌に食いつきやすくする為だ」
反論を抑え込むかのように、冷徹で残酷な言葉が響いた。王の七色の瞳には獰猛さが宿り、異論を決して許さないとシュウランを鋭く睨む。
──刹那、二人の間に冷たい空気が流れた。
王と宰相という立場以上に、ここにくるまで長い間を苦楽を共にしてきた二人だが、それぞれが望むものは同じようでいて微妙に違っている。
それをアスランもよくわかっていたからこそ、もっともらしい言葉で包んでその考えを押し通そうとしたのだ。
「……わかりました……王の仰せのままに」
「……あぁ……」
アスランの言葉に、シュウランもひとまず恭順の姿勢を取った。その様子にアスランのほうもようやく溜飲を下げ、己の命令をすぐさま実行するよう伝える。
そこにはティアンナに想いを寄せる一人の男としての感情とは程遠い、非情な王としての決断があった。それが自身の望む未来をもたらすと信じて────
だがその心の内が知らずに荒れ狂い乱れているのを、本人すらも気づいてはいない。それでもアスランは、タゥラヴィーシュの王として、その道を後戻りはしないのだ。
「あちらがロヴァンスの花嫁を利用するならば、こちらも利用するまでのことだ」
アスランが放った言葉は、花嫁の眠りを覚ますことなく、月影の夜に冷たく消えていった──




