2章56話 殺戮の梟
──ゆらり──
刹那、夜の闇が揺れる。
それまで地面にうずくまり沈黙していたナイルが、突然立ち上がった。
「ナイル?」
「…………」
ジェデオンの問いかけに、ナイルは答えない。
静かに佇むその姿は、まるで人形のように生気を感じない。
ナイルの突然の行動に、ジェデオンだけでなく“レーン”をはじめとする黒装束の者達も驚き、その攻撃の手を止めていた。
ナイルは微動だにしない。
ただ静かに、そこに佇んでいるだけだ。
しかし、彼の纏う空気は、どこか──異様だった。
ぬるりと生暖かい血が、身に纏わりつくかのように──
己の死の瞬間を、見せつけられたかのように──
おぞましい感覚が──病のように伝染していく。
音は闇に吸い込まれ、風は消え失せた。
────息を吸う事さえ、ままならない。
空気が凍え────時を──止めた。
──ドシャリ──
路地裏に響く、歪な音──
黒装束の男の一人が、血しぶきをまき散らしながら、崩れ落ちていた。
ナイル──いや、梟の仕業だ。
そう理解しているというのに、誰も動くことができない。
それはまるで幻のように。
梟だけが、別の次元に存在していた。
(なんて……なんてことだ……!)
ジェデオンは目の前の光景に、戦慄していた。
特務の長、ジルギスの言っていた事を、今、真に理解したのだ。
『あれは……あの男は……十年前の惨劇の日に、そこにいた』
ジルギスの言葉が、頭の中で再生される。
その間にも、目の前の梟は、次の犠牲者をその刃で貫いていた。まるで乾いた大地に、恵みの雨をもたらすかのように──
幾人もの人間の血が……おびただしい量の血が……
そこに真っ赤な海を生み出していた。
おぞましい、誠におぞましい……地獄のような光景──
梟にとって、その行為は、息をすることと同義なのだ。
死の翼を羽ばたかせ、殺戮をその地にもたらす──
それが──
「こ……れが……殺戮の梟……」
梟によって味方が殺されていくのをただ傍観していた女が、ようやく絞り出すようにして紡いだ言葉がそれだ。
歪んだ笑みが女の中に生まれる。
それがどんな感情の下に起因するのかは、わからない。だが、彼女達が求めた存在がそこにいたのは確かだ。
「……ナイル!!」
それまで動けずにいたジェデオンが、何とか己の肉体の制御を取り戻し、大声でナイルの名を叫ぶ。
しかしそこにいる小柄な男は、既にジェデオンが知るナイルではなかった。
まるで人という存在そのものを、認識していないかのように。
生ける殺戮人形は、その翼を血に染め続ける。
そしてついにその刃が、ジェデオンへと向いた。
──ガギャンッ!!──
二つの刃が、激しく火花を散らせる。
体格においては、ジェデオンの方がナイルよりも上だ。
しかし梟の一撃は鋭く──重い。
この小さな身体のどこに、これほどの力を秘めているのか。
ジェデオンの背を嫌な汗が伝う。
しかしそれを感じる余裕すらなく、流れるような追撃が降り注ぐ。
「ぐっ……!」
流石のジェデオンでさえ、梟として覚醒したナイルの刃を、無傷で防ぐことは出来なかった。
じわりじわりと肩に、腕に、その紅い爪痕が刻まれる。
梟の刃は、今は片翼のみだ。
もう一つの刃は、先ほどのレーン達との攻防で、地面に落としている。
もしこれが二刀揃った状態であったなら……
片翼だとしても、梟の舞は、その美しさを損なわない。
血に染まる月夜の街。
死の翼が、夜空に紅い花を咲かせていた──
「ナイルッ!!しっかりしろ!」
激しい攻防の中、それでもジェデオンは、何とかナイルの目を覚まさせようと、必死に声を掛ける。
「…………」
しかし反応はない。
まるで彼の中には、感情という概念そのものが、存在していないかのように。
虚ろな瞳が映すのは、鮮血の赤と深淵の闇のみ。
「はっ……あはっ……あはははははは!」
突如として、二人の攻防を傍観していた女、“レーン”が不気味な笑い声を上げた。
既に彼女の手勢は、ナイルの手によって壊滅の危機に瀕しているというのに。女は、その顔に歓喜の色を滲ませている。
「いいわ!それでこそ鷹の求めた梟よ!」
女が歪んだ愉悦を吐き出すと、その声に初めて梟が反応した。
『イ……サエル、任務……終ワラ、セル……』
「!!?」
これまで無反応だった男の放った言葉。
それは聞いたことのない言語。
低く、抑揚のない声音。
ナイルが話したものではない。
梟という存在の放った言葉だった。
「ナイル……っ!」
ジェデオンは、自分の知っているナイルという男が、既にそこに存在しない事を思い知った。それでも諦め切れずに、その名を叫ぶ。しかし──
『ロヴァンス、ノ、花嫁、殺ス……邪魔スル、ノ、殺ス……』
「えぇ、そうよ!その男が敵よ、梟!彼を殺せば、鷹の下へ帰れるわ!」
非情なる鷹の呼び声が、女によって放たれた。そして──
──ドシュッ……!──
「がっ……はっ…………」
冷たい月の光に照らされ、二つの影が重なった。
真紅の花びらが、儚く舞い落ちる。
梟の片翼が──ジェデオンの腹を貫いたのだ。
「な……ぜ……」
ゴポリ……と血が溢れ、口にした言葉は最後まで紡げなかった。
『…………』
梟は相手の腹から刃を引き抜くと、冷たく見下ろす。
その虚ろな瞳が映すのは、かつての上司、そして戦友だった男。
しかし梟の中には、何の感情も起こらない。
ただ目の前の命が消えゆくのを、じっと見つめていた──




