2章55話 特務師団副長の男
「ナイル!!」
ナイルの名を叫び、そこへやってきたのは、ジェデオンだった。
ジェデオンは、路地裏で展開されている光景を目の当たりにし、すぐに状況を把握した。黒装束の者達に囲まれて、血に塗れた小柄な男が、虚ろな表情で膝を付いている。
ジェデオンは、一目でその人物がナイルであるとわかった。
長年共に仕事をし、彼の変装した姿を何度も見ている。だからナイルがどのような格好をしていようと、彼の事を間違えはしない。
しかし目の前にいる人物は、ジェデオンの知っているナイルとは、どこか違う様に思えた。彼の中に、何か底知れぬ異様な雰囲気を感じる。
(一体何が──)
ジェデオンは、ナイルにそう問いかけたかったが、今はそんな悠長なことをしている場合ではない。
路地裏にはナイルを痛めつけ、捕らえようとする黒装束の者達。彼等は明らかに敵である。そんな彼等を率いている女に、ジェデオンは嫌というほど見覚えがあった。
ラーデルス王国を、内部から壊滅せんと目論んだ人物、“レーン”だ。
「やはりお前達が関わっていたのか……好都合だな」
ジェデオンは鋭い視線を、目の前の女へと向けた。
ジェデオンは“レーン”がこの場にいる事に驚きはしなかった。寧ろ特務の調査によって、自分が導き出した結論が正しいものであることを確信した。
不敵な笑みを浮かべ、路地裏に進入するジェデオン──彼は、既に商人としての仮面を脱ぎ捨てている。
今ここにいるのは、ロヴァンス王国特務部隊の副長だ。
突然の乱入者に、ナイルを取り囲んでいた黒装束の者達が、今度はジェデオンへと斬りかかる。対するジェデオンは、一見すると丸腰だ。しかしその商人としての衣の下には、隠し刀が仕込んである。
ジェデオンは瞬時に抜刀し、華麗に敵の刃を躱す。
──そして次の瞬間には、相手の首元へとそれを食い込ませていた。
断末魔の悲鳴をあげることさえ許されず、崩れ落ちる黒装束の男。次々と襲い掛かる他の者達も、ジェデオンの前に同じ運命を辿っていく。
剣戟に飛び散る火の粉さえも、彼の姿を照らすことはできない。
漆黒の闇に旋風が走ったかと思うと、そこに散るのは赤黒い血の色のみだ。
これがジェデオンの実力──ポワーグシャー家の男児として、また特務部隊の副長として、ジェデオンの剣技は凄まじく、複数の敵に囲まれても、彼の優勢はびくともしない。
「チッ……厄介ね……!」
それまで余裕の表情を見せていた女に、焦りが見え始める。女の手勢は、既に半分ほどに減らされていた。
ジェデオンの戦い方は、特務として鍛えられたものだ。正当な騎士としての剣術とは違い、より相手を殺すことに特化したもの。
──それは任務を確実に遂行する為の技である。
そしてそれは、女の側の者達にも言えることであった。相手を殺す為に鍛えられた技。同じ技を習得した者同士であるだけならば、その剣技の差は僅かなものであっただろう。
しかしジェデオンの場合は、こうした殺人術の他に、騎士としての正統な剣技も習得している。多対一での不利な状況でも、己の生命を守り、確実に敵を倒すことができるのだ。
そんなジェデオンが、剣技において彼らの上を行くのは当然のことであった。勿論それは彼自身の血の滲むような努力の賜物である。
「厄介なのはそっちだろう?こないだは随分と掻き回してくれたじゃないか、レーンさんよ」
ジェデオンが嫌味を込めて女の名を呼んだ。勿論それが女の本名ではない事は、十分に承知している。
「あんた達は、ラーデルスとロヴァンスとの間に戦を起こそうとしていた。それがトラヴィス国王の指示でないことは、既にわかっているんだよ」
「うるさいっ!」
女は苛立ちを露わにしながら、その鞭を振るった。しかしそれがジェデオンの下へ届くことは無い。
周囲を取り囲む敵をうまく利用し、その攻撃範囲から逃れる。
幾度もそのようにして攻撃を躱され、女の苛立ちは更に募った。
「ロヴァンスの王女がラーデルスの王妃になる事は、お前たちには都合が悪かった」
ジェデオンは、戦いながらも女の動揺を誘う為、わざと煽るように自らの推測を述べていく。
「何故なら、あんたが王妃になるつもりだったからだ。ラーデルスの令嬢レーンになりすまし、サイラス王子を国王として擁立する。だが実際は、裏であんたがラーデルスを操るつもりだった──そういうことだろ?
……ナバデ―ルや他の貴族達は、ただ利用されただけだ」
「っ──」
“レーン”の表情に、明らかな動揺と怒りが見て取れる。そのせいか、敵の指揮は混乱していた。統制が乱れ、女の攻撃にも粗が見え始める。
そんな相手に対し、ジェデオンは尚も言いつのる。
「だが、あんた達の敵は、ロヴァンスでもラーデルスでもない」
──ジェデオンの言葉は、隠された真実を暴く。
トラヴィスへと旅立つ前に、ジェデオンは叔父のジルギスから、十年前にまつわる出来事を聞いていた。そこから得た情報と、これまでの調査内容を擦り合わせて得た彼なりの推測。
それは、これまでのトラヴィスとの関係を覆すもの──
だがその問題を解決しなければ、戦の火種は永遠に絶えないだろう。ジェデオンが、国王ウラネスから直々に極秘の任務を言いつかったのも、全てはそこに起因する。
「うるさい男……いい加減黙りなさいっ!」
女は、もはや聞いてはいられないというように、無茶苦茶に鞭を振り回す。
狭い路地の土壁に、鞭が激しく当たり、いくつもの亀裂を走らせる。
冷静さを欠いた女の様子は、ジェデオンの思惑通りであった。
このまま時間を稼ぎ、そしてナイルを再び特務へと戻すことができたら──
しかし、そんなジェデオンの目論みを崩す者が、そこに現れた────




