2章54話 ナイルと梟(ヒューロー)
「ぎゃあぁぁぁっ」
──くすくす──
夜の闇に紛れ、断末魔の悲鳴と悪魔の笑い声が、路地裏に消えていく。
僅かな月の光の下に佇むのは一人の若い女。艶やかな茶色の長い髪を背に垂らし、夜に溶ける漆黒の装具を身に纏う。
その女──ただの女ではない。
女の足元には、横たわる男の身体。たまたま酔っぱらって通りかかっただけの不運なその男は、女の手により既に絶命している。
女は足元の死体を蹴り飛ばすと、何事も無かったかのように地面に広がる血だまりの上を行く。ピチャリ……ピチャリ……と、生々しい音が静寂に響いた。
「お久しぶりね」
この場の凄惨な状況に似合わず、女は楽し気な様子でそう言った。
声を掛けた相手は、女と対峙するようにして路地裏に佇む一人の男。
小柄な身体──血に塗れた鳩羽色の衣は既に脱ぎ捨てており、隠されていた柔らかな栗色の髪と梟のように大きな瞳が、微かな月光に映し出されていた。
その男は、先ほどまで宮殿を死の恐怖に陥れた人物──ナイルだ。
ナイルは逃げる途中のこの路地裏で、突如現れた女に足止めをされていた。
「厄介だね……あんたの相手なんてしている暇はないんだけど」
ナイルは女をギロリと睨みつけ、後方へと下がり適度な間合いをとる。女の得物が、厄介なものであることを彼は知っていた。
「あらあら。ラーデルスで会った時とはだいぶ雰囲気が違うわね」
睨みつけるナイルの様子に何かを感じ取ったのか、女は嘲笑うようにそう言った。
ナイルは心の内で舌打ちをする。
今、女と対峙しているのは宮殿のほど近く。人気の無い所ではあるが、先ほど女によって殺された男が悲鳴を上げたため、誰がやってきてもおかしくはない。
何よりナイルは、王の住まう宮殿を襲ったのだ。衛兵などに見つかるわけにはいかない。
しかし目の前の女は、誰かがやってくることなど気にもしていないのか、長い髪を揺らしながら、ただ嫣然と微笑んでいる。その手には毒蛇のようにしなる鞭。それは未だ血が足りぬというように、緩やかに蠢いていた。
「ふふ。今の貴方ならわかるわ。その目……血を見たくて仕方ない感じの──」
女は恍惚とした表情で、自らの指に舌を絡ませた。血の滴るような真っ赤な舌が、月光に晒され青白く輝く肌の上を這う。まるで悪魔が舌なめずりするように。
ゾクリ────
刹那、ナイルは感じた。
女の中にある、真っ黒で凶暴な悪意を。
同時に背を這い上る何か──
恐怖とも狂気ともとれる、おぞましい感覚。
女の中に垣間見た“ソレ”は……
自分の中にも──“いる”──と。
途端に自分ではない何かの声が聞こえてくる。
……ミツケ……タ──
(ダメだ!)
ナイルの理性が激しく警鐘を打ち鳴らす。
このままではいけない、その声を聞いてはいけないと。
必死で思考を切り替えようと、頭を振って言葉を絞り出す。
「……レーンだっけ……いや、本当の名前は違うか……」
ラーデルス王国の令嬢として現れ、そしてあの離宮が炎上した夜、黒ずくめの襲撃者を率いていた女────そう、目の前の女はまさにあの“レーン”であった。
それは“ナイル”として過ごしていた時の記憶だ。
あえてそれを口にすることで、自分の中の“ナイル”の意識を浮上させたのだ。
しかしナイルのその言葉に対して、女は意外な表情を見せた。まるで親しい者と話すかのように、鮮やかに笑ったのだ。
「覚えていてくれたのね。嬉しいわ。そう……あの時はわからなかったけど、私は貴方と同じ」
「同じ?」
ドクン
背中を冷たいものが伝う。
同時に押さえつけたはずの声が、悪魔のように囁く。
──ソウ、オナジ、ダ……──
女の言葉に同意するように“ソレ”は自身の存在を主張する。
(ダメだ!聞くな!)
ナイルは必死で頭の中に響く声を打ち消す。
己の中のもう一つの存在──もう一つの意識。
それは少し前から、ナイルの意識の表層に現れ始めた。
少しでも弱みを見せると、ナイルを食らいつくそうと、深淵の闇から触手をのばすのだ。
ナイルはそれを打ち消すために記憶を遡り、己の源流に連なる者達を死に追いやっていた。
ナイルの葛藤をよそに、女は涼し気な目元を愛し気に細め、笑みを浮かべている。しかしその瞳は、どこか虚ろな様子であった。
「だってそうでしょう?あなたも、あの人の子供なんだから──」
「子供?……何のことか、わからない、ね……」
──シッテイル……オレ、ハ、シッテイル、ゾ──
(まずい……このままじゃ……)
女の言葉に、心の中にいる“ソレ”が激しく反応する。
自身の言葉とは裏腹に“ソレ”は、女と同調し始めていた。
その様子をわかっているのか、女はついにナイルに向かってその名を口にした。
「鷹よ、梟」
「イ……サエル……?」
ドクン……
──ソウダ、イサエル、ダ──
(や……めろ……その名前は……)
「イサエルが貴方の帰りを待っているわ」
ドクン……ドクン……ドクン……
──いいか、ロヴァンスの花嫁を殺せ──
──ロヴァンスの花嫁だ、梟──
「うっ……」
途端に頭の中に何者かの声が響く。
それは語り掛ける──ナイルに──いや、ナイルの中にいる”ソレ“に。
──イサエルガ……ヨンデイル──
「さぁ私達と共にいきましょう?」
女の悪夢のような言葉と共に、黒い装束に身を包んだ者達がどこからか現れ、ナイルを取り囲む。
「いや……だ……」
「いいえ、戻るのよ梟。鷹の言葉は絶対よ」
女の言葉を合図として、黒装束の者達がナイルを拘束しに襲い掛かった。敵の曲刀が、いくつもの弧を描き降り注ぐ。
「くっ……!」
ナイルは痛む頭を押さえ抵抗するが、身体が言う事を聞かない。
その両腕の刃は精彩さを欠き、彼はじりじりと追いつめられる。
梟としての意識が、ナイルの邪魔をしていた。
(嫌だ……俺はこんな所で……)
刹那、女の鞭が大きくしなる。ナイルの足に強烈な一撃が入り、衣を引き裂いて鮮烈な赤を地面に散らした。
「ぐあっ!」
梟の片翼であるその刃が、虚しい音を立てて地面を転がる。
女は勝利の愉悦と、嬲った獲物に対する優越感とで、残酷な笑みを浮かべた。
「殺しはしないわ……貴方は鷹のモノだもの」
(イサエル……のモノ……)
鼓動が激しさを増し、指先が氷のように冷えていく。
荒れ狂う稲妻のように、鮮烈な血の記憶が明滅し始める。
(欠けていた……記憶が……)
ジュクジュクと真っ黒に穢れた何かが、内側から溢れ出す。
それはナイルという人格を飲み込み、今にも消し去ろうしていた。
(リアドーネ……)
「梟、鷹の下へ帰るのよ」
女の言葉が。
ドクン……
──トキガ、キタ──
己の中の梟の言葉が。
ドクン……ドクン……ドクン……
ナイルの存在を殺していく──
「や……め……ろ……」
(リアドーネ……俺は……)
膝を地面につき、俯くナイルの瞳から、一筋の涙が流れ落ちる。
(君を見つけられなかった……)
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン……
早まる鼓動。
凍える指先。
瞳から光が消えていく――
(俺は……オレハ…………)
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン
──イサエル、ノ、モトヘ──
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン
──カエル、トキダ!──
ドクンッッ!!
「ナイル!!」
その時、路地裏の入り口から、ナイルの名を呼ぶ声が上がった。




