2章53話 砂漠の都に集う影
宮殿が血の恐怖に陥っていた時と同じ頃、ヴィシュテールの街へと一人の商人風の男が到着した。
「やれやれ、酷い砂埃だ……」
男は濃いブラウンの髪をかきあげ、服に付いた砂を払う。
「ここがトラヴィス王国の首都か……」
琥珀色の目を細め、月夜に鎮まる砂漠の街を見やる。
男にとってこの街は、長年対峙してきた敵の本拠地である。どんな魔窟が広がっているかと想像したこともあったが、今はいたって普通の街のように見えた。
時折砂が風に舞い、昼の喧騒とは打って変わって、静けさに沈む街並みはどこか寂し気だ。しかしそんな街の中にも、蠢く闇は潜んでいる。
「──ジェデオン様」
生き物の気配すら感じぬ静まり返った裏路地の影から、商人風の男を呼ぶ声がする。
「状況は?」
商人風の男──ジェデオンはその声に驚くことなく、すぐさま影に状況を確認した。
「ティアンナ様は無事に宮殿に入られましたが、こちらのつなぎの者は未だ──しかしどうやら先ほどから、宮殿で何か動きがあったようです。衛兵の者達が騒いでいるとの情報が」
「すぐに調べろ。商会の名を使っても構わん。それからあの者はどうしている?」
ジェデオンはすぐにすべき事を頭の中で整理し、的確に指示を出していった。
彼はチャンセラー商会というロヴァンス王国の諜報を担う組織、その実行部隊の実質上の長である。
そんな彼が言う“あの者”とは、特別に今回チャンセラー商会と共に任に当たっている人物の事だ。ルシュタールの街であれこれ調べていたジェデオンと違い、先にこの街に入っているはずである。
「はい。ティアンナ様が宮殿に入られるのを見届けてから、そのまま宮殿付近で様子を窺っているようです。流石に異国人では中には入れませんので……」
「そうか──彼にとっても一番の気がかりはティアンナだろうからな……」
そう言うジェデオン自身も、妹の名を口にする時、僅かに眉を顰めている。ジェデオンにとってもティアンナは大事な家族であり、また彼自身今の状況があまり良くない事をわかっているからだ。
しかし泣き言ばかりも言ってはいられない。ジェデオンには特別な任務がある。
それを知るのはごく一部の者のみ。それはトラヴィス国王へと嫁いだティアンナですら知らされてはいなかった。
「一旦商会へ向かう。それから──」
ジェデオンが次の指示を口にしようとしたその時──
──ぎゃあぁぁぁっ……──
夜の静寂を引き裂くような、おぞましい悲鳴が遠くに響いた。
「っ!今のは──」
ハッとした影の者が視線を戻した時、既にそこにジェデオンの姿はなかった。ただ闇の中を足音も無く駆けていく男の、巻き起こした砂埃のみが舞っていた──




