2章51話 梟の闇
天高く上った月の光が、闇に蠢く者達の罪を詳らかにしようと地上に降り注ぐ。その光から逃げるように、梟は砂漠の街の影にその身を隠していた。未だ夜は深い。
血に塗れた刀を拭い、汚れた衣服を道端に脱ぎ捨てた。べしゃりと嫌な音がして、代わりに死の匂いがその身にまとわりつく。
「うっ……」
男は時折痛む頭を押さえ、追手を撒く為に寂れた路地裏を行く。
「……厄介……だ……」
脳裏に浮かぶのは、先ほどの光景。
美しく着飾った見覚えのある銀髪の女性。
──ナイルっ──
彼女は男の名を知っていた。
深い月夜の闇を切り取ったかのような梟の虚ろな瞳に、刹那──理性の光が戻った。
「……なんで……隊長があそこに……?」
その言葉は、かつてナイルと呼ばれ、ロヴァンス王国の騎士として剣を振るった男のものだ。
しかし真っ赤な血で染まったその姿は、騎士ではなく死をもたらす梟のものである。
「なんで…………」
闇の向こうに問いかけた言葉は、自分自身へと返ってくる。
始めの目的は別のものであったはず──
しかしその為に近づこうとする真実は、まるで流砂のごとく男の意識を飲み込み、風化して忘れ去られたはずの古い記憶を呼び覚ましていった。
少しでも気を緩めれば、おぞましい記憶の残滓にこの意識が囚われていく。
それを振りほどこうとすればするほど血に塗れ、そして己の望みとは裏腹に本来の姿へと戻っていく。
まるで靄がかかったように、男の意識は混沌の海を彷徨う。
梟としての記憶と、ナイルとしての記憶が、男の中でせめぎ合っていた。
──どちらが己の真実なのか──
その苦しみの中で僅かに浮上したナイルとしての意識が、縋るように先ほどの光景を反芻していた。
王の横に佇む美しい妃──アトレーユ
その顔、その声、その剣技──それは男が良く知る人物だ。
何故彼女があのような格好であの場所にいたのか──
ナイルとしての経験、そして梟としての忌まわしい記憶が、その事実をすぐに突き止めた。
「……隊長がロヴァンスの花嫁……」
その言葉を口にすれば、己がナイルであるという確信が、足元から迫る梟の記憶を掻き消してくれる、そう思っていたが……
──いいか、ロヴァンスの花嫁を殺せ──
「っ──」
頭の中に自分でない男の言葉が響く。
それは梟としての意識を呼び覚ますもの。
その声は梟の意識を縛り付け、逆らう事を許さぬように強く心を支配していく。
「……嫌だ」
──ロヴァンスの花嫁だ、梟──
「俺は梟じゃない……ナイルだ!」
男は叫ぶと同時に、路地裏の壁を思い切り素手で殴った。
握りしめた拳から、ジワリと血が滲みだした。
虚ろな目でそれを見て、その色がまだ赤い事に安堵する。
自分の中から聞こえてくる声に怯えながら、男はゆらりとその場を後にした。
次の獲物を探さなくてはいけない。
──梟……お前は完璧な殺戮者──
この声が消えるまで……




