2章50話 怒れる王と捧げる決意
夜明けを待たずして、殺戮の惨状は明らかとなった。
王宮の使用人が何人か、そして兵士達。最も犠牲者が多かったのは後宮の侍女だった。まるで彼女達だけを選んで殺したかのように、他の武器を持たない者に怪我はなかった。
アスランが難しい表情で、部下から報告を聞いている。やがて報告を聞き終わると人払いをした。アトレーユはじっとその様子を黙って見ていた。
アスランの漂わせる気配が、怒りに満ちている──そしてそれはアトレーユへと向けられていた。
寝台に座らされたまま、アトレーユはじっとアスランの言葉を待った。
アスランはこちらへと向き直ると、厳しい表情のまま近づいてくる。やがて目の前に大きな影が立ち塞がり、冷徹な声音が頭上から降ってきた。
「……お前はあの男を知っているのか?」
低く鋭い、抜身の刃のような声。
返す言葉を間違えればこの命を奪われる──そんな予感がした。
「……はい……あれはかつての私の部下です」
真実そうだった。
あの侵入者の男、幾人もの人間の命を奪ったのは、間違いなくナイルだった。
いや──ナイルと呼ばれていた男だった。
アトレーユは苦い感情と共に、その顔を歪めた。
「部下──ロヴァンスの騎士か──」
アスランの表情は読めない。
剣を交えた時に、その名を口にしてしまったことを後悔した。この件が、祖国にどんな災いをもたらすのか──
「お前があの男を手引きしたのか?」
「いいえ」
「ではお前の国の者達が、あの者をこちらへ仕向けたのか?」
「いいえ」
アスランの厳しい詰問に対して、淀みなく答えていく。
「…………ではあれは一体誰の命令で、この宮殿に押し入ったのだ?」
「……」
その疑問にアトレーユは答えることができなかった。
じっと俯いていると、剣が鞘から抜かれる音が聞こえた。
冷たいものが首筋に触れる。
「……その首が惜しくはないのか?」
剣をアトレーユの首筋に当てたまま、アスランは問う。
冷酷なその言葉は脅しではない。
アトレーユはそれに怯むことなく顔を上げ、獰猛な王者の瞳を、真っ直ぐに見つめた。
「知らぬものは答えられません。あの者はもはや私の部下ではなく、すでにロヴァンスからも出奔しているのです」
ラーデルス王国でキャルメ達の結婚式を見届けた後、ナイルは姿を消した。ジェデオンら特務の者が、ナイルの行方を必死に探したが、その消息は分からなかった。このような形で再会するまで──
「……そうか」
アトレーユの言葉を真実と受け止めたのか、アスランは静かに剣を納めた。漂っていた鋭い空気が少しだけ緩む。
しかしアスランの表情は険しいままだ。
「……あの男は一体何者なのだ?」
アトレーユは言葉に詰まる。
何者かと問われて答えられるほどに、ナイルの事を詳しくは知らない。この場に現れた事に、アトレーユ自身も驚いたのだから。
「……私と同じく、ロヴァンスの王女の護衛として数年を共に過ごしました。……しかしあの男の事は、ほとんど知らないのです」
元々特務からやってきた男だ。叔父のジルギスの懐刀といってもいいほどの凄腕の特務隊員。彼がどこで生まれ、何者であるのかは何一つ知らない。特務という仕事の特殊性から、これまで気にしたこともなかった。
「……あんなおぞましい殺し屋が護衛とはな……酷い冗談だ」
アスランが嘲るように冷たく笑った。
言うべき言葉が見つからない。
かつてのナイルの姿が脳裏に浮かぶ。
ナイルは、守るための剣は不得意だと、よくぼやいていた。護衛隊員同士での訓練では、ナイルはいつも他の者には及ばなかった。
しかしひとたび特務としてあの二刀の剣を持つと、鮮やかなその剣技は他を圧倒した。舞いのように美しいその姿は、騎士としての役目に縛られなければ、的確に相手の急所を狙う。
護衛隊としてのナイルは、その実力の全てを発揮してはいなかった。何一つとして、ナイルの事を理解してはいなかった。
「……今回の件は、ロヴァンスとは関係ないと思います……だから──」
「…………だから?」
アスランが胡乱な目を向けた。
「……戦になることだけは避けたいのです。私が……この責を負います」
膝の上で強く拳を握り絞める。
アスランがいくらこの身を国の為の犠牲にしないとは言っても、自分の役割はただ一つ。いざという時の為に、祖国の代わりにこの命を捧げることだ。
じっと耐えるように身体を固くするアトレーユに、アスランの表情はその本心を垣間見せることはなかった。
──暫くの沈黙の後、王の処断が下される。
「……お前の決意はわかった──だがその命を取るのでは足りぬな」
「っ──」
非情なその言葉にアトレーユは絶望した。己の失態が国の立場を危うくする──その恐怖は、想像を絶するものだった。
「この身はどうなっても構いません。だからどうかロヴァンスとの戦だけは──」
その腕に縋りつき必死に懇願した。
しかしアスランは微動だにしない。
冷たい瞳がアトレーユを見据え、非情な言葉がその口から放たれる。
「……お前の覚悟とやらを見せてもらおう……」
その言葉と共にアスランの逞しい腕が、細い腰を抱き引き寄せる。
「ぁっ──」
小さく息を飲むと、抵抗するのを許さないとばかりにアスランの大きな身体が覆い被さる。
熱い吐息が首筋に触れ、獰猛な視線に射抜かれる。
恐怖と後悔とで、瞼の裏が熱くなる。
しかしこの心は──騎士としての心だけは、折るわけにはいかない。
アトレーユは溢れそうになる涙を堪え、目を閉じる。その身を獰猛な王者に捧げる為に……。
その悲壮な決意を、夜空に浮かぶ月だけが見ていた──




