2章49話 梟の襲撃
「きゃあぁああぁぁ!」
アトレーユ達のいる後宮の奥深く、廊下からつんざくような悲鳴があがる。
「なんだ?!」
甘い雰囲気は瞬時に霧散し、アスランはアトレーユから身体を離した。
アスランが離れたことに安堵しながらも、突然の出来事にアトレーユは驚きと戸惑いを隠せない。
部屋の外では、女達の悲鳴や逃げ惑う足音が聞こえてきた。昼間聞いた悲鳴とはその数の多さが違う。そしてアスランも酷く動揺していた。
尋常じゃないことが起きている。二人の間に鋭い緊張が走った。
「……側を離れるな」
アスランが視線をじっと部屋の外へと向けながら、低く言った。
アトレーユは表情を引き締めてそれに頷く。
後宮であるこの場に、男の兵士はいない。武器やそれになりうる物の持ち込みは制限されており、敵が来たとしてもそれに対抗する手段はないのだ。
しかし、そもそもこの建物は他から隔離されるように高い城壁の上に建ち、その周囲の警護は厳重だと聞く。そんな中で、アスランの預かり知らぬ出来事が起きているのだ。ただ事ではない。
俄かにアスランが、腰に差している剣を抜いた。
アトレーユも視線を鋭くする。
死の気配が──血の匂いがかすかに空気に混じっている。
闇夜に月の影が見えないように、気づかぬうちにおぞましい殺意がすぐ目の前に来ていたのだ。
ふわりと空気が揺れる。
アスランが剣を構え、アトレーユをその背に隠す。
────突如目の前に一人の男が現れた。
鳩羽色の外套を頭から深く被り、その両腕には湾曲した二刀の血に塗れた刃。
この世の影を、全てその身に映したかのように静かに佇んでいる。
まるで現実とは思えないような悪夢──
その身に飛び散る血の量を見れば、どれだけの命がその手にかかったのかわかる。
「っ──」
そのおぞましさにアトレーユは眉を顰めた。
しかし男はこちらを一瞥すると、何事もなかったかのように背を向けた。
……まるでここに用はないとでも言うように。
しかしアスランがそれを引き留めた。
「待てっ!」
強く鋭いその言葉にも男は振り向かない。まるでこちらの存在自体が見えていないかのようだ。
「待てと言っている!」
怒りを露わにしたアスランが、言葉と共に男に斬りかかった。
鋭い刃が男の背に振り下ろされる。
しかし次の瞬間に、男の影はそこには無かった。
低く身を躱したかと思うと、くるりと反動をつけてアスランの足元をその刃が狙う。
アトレーユは近くにあったクッションを思い切り投げつけた。
刃が更紗の布を切り裂き、中から真っ白な羽が飛び散る。
「っ──」
アスランは辛くもその刃から逃れ、体勢を立て直した。
しかし未だ敵の手は緩まない。
幾度かその刃を防いだが及ばず、ついにアスランの剣が宙を舞う。
──カランッ……!──
乾いた音を立て、剣はアトレーユの近くに落ちた。
アトレーユはすぐさまその剣を拾い、襲撃者に向けて構える。
すると侵入者の意識は今度はアトレーユへと向いたようだ。
白く舞う羽の奥に、ギラリとおぞましい瞳が闇に光る。
その強烈な気配に怯まず男を睨みつけると、ぬるりとした殺意が男の奥から現れてきた。
背筋が凍るほどの恐怖。
今までに対峙してきた敵とは違う。
ただ相手を殺す為だけに、その男は存在しているのだ。
男がアトレーユへと近づく。
「やめろっ!」
アスランの怒声は男の耳には入らない。
男は血に塗れたその刃をこちらへと向けると、やおら首を傾げた。
「……違う……」
ただ一言漏れ出たその言葉。
アトレーユの目が、驚愕に見開かれていく。
聞き覚えのある声。
アトレーユはその声の主を知っていた。
「……お前は──」
「っ──」
アトレーユの声に今度は男が驚き、一瞬その動きが止まった。
その隙にアスランが男に掴みかかろうとする。
しかし二刀を携えた相手に素手で立ち向かうのは危険だ。
男の反撃がアスランへと向けて繰り出される前に、アトレーユはその眼前に立ち塞がった。
──ギィンッ!!──
強烈な一撃を剣で受け止める。
二人の刃がせめぎ合う。
鈍く耳障りな音の向こうに、アトレーユはその顔をはっきりと見た。
「──ナイルっ」
確信と驚きに思わずその名を口にする。
刹那、剣にかかる力が緩んだ。
アトレーユは一気にその刃を弾く。
力を失くした人形のように男はあっさりと離れ、剣を持つ腕をだらりと下げた。
もはやそこに殺意は見えない。
「なぜ──」
その言葉に反応して見上げた顔は、まるで別人のようだった。
無邪気で悪戯な笑顔は無く、血と死の影を纏った虚ろな目の男がいた。
アトレーユは近づこうとしたが、伸ばした手をすり抜けるように男は遠ざかる。
「待て──」
追いかける言葉も虚しく、男は嵐のように去っていった。
残されたアトレーユとアスランは、暫くの間その場から動くことはできなかった。




